【阿部雅世さんの新連載 6】見えないものと生きてゆく時代に――助けること、助けられること

連載6 助けること、助けられること

振り返れば30年以上もの間、母国語が使えない異国の中でひとり、よちよちと外国語を覚え、使いながら暮らしてきた。そして、それぞれに異なる言語をもつ、ずいぶんたくさんの国に出向いて仕事もした。母国語の日本語+英伊独の3つの外国語(正直に言えば、ドイツ語はまだ相当あやしいところがたくさんあるので2.3か国語)が、今のところの私の精いっぱいだけれど、どうにかこうにか身につけた言葉をやりくりして、こんなパンデミックの時代に突入してもなお、なんとか無事に生き延びている。

そういう母国語が通じない暮らしを続けた中で、言葉を学ぶということについて、ひとつ悟ったことがある。それは、どの地にいようと、誰といようと、人として生きていくために最も大事な会話、何よりも先に覚えるべき言葉は、
「助けてください。手を貸してください。Would you please help me?」
「私にできることはありますか? 手をお貸ししましょうか? How can I help you?」
のふたつに尽きる、ということだ。

Helloでもない、My name isでもない、このたったふたつのフレーズ。このふたつが言えるかどうかに、人として生きていけるかどうかがかかっている。そして、フレッド・ロジャースが言うように「助ける人がいること」が希望であるならば、このふたつが言えるかどうかは、希望の問題でもあるのだと、あらためて思う。

これらのフレーズが、ものを運ぶのを手助けするような日常の場面から、生死がかかった危機的な場面まで、どんな場面においても、自分の口からすっと出るかどうかは、それができるように、日々自分を鍛えているかどうかにかかっている。そう強く思うのは、日本で育った自分の中に、人を助けることには躊躇がないのに、助けてもらうとなると、何か恥であるかのような感覚、申し訳ないことをお願いしているような感覚が沁みついていて、助けを乞う言葉は、すっとは自然に出てこない、そういう自分がいることを知っているからである。

日本の暮らしの中で、助けてくれる人があらわれ「手を貸しましょうか」と言われたときに、反射的にまず出る日本語は「いえいえ、大丈夫です」。日本では、この「手を貸しましょうか」は、社交辞令かも、という暗黙の了解があり、まずは遠慮してしかるべきもの。「手を貸してください、助けてください」という言葉は、自分でまずなんとかしてみて、できるだけやってみて、もう自分だけではだめだ、どうしてもだめだ、となって、やっと発すべき言葉である――と、どこで刷り込まれたのかわからないが、私は、そんな風に思い込んでいた。そして、日本を出てしばらくの間、「手を貸しましょうか」と言われても、その刷り込まれた日本語会話を異国の言葉に直訳し、「大丈夫です」「大丈夫です」と連呼している自分がいた。ましてや「手を貸しましょうか」と向こうから言ってもらってもいないのに、積極的に助けを乞う、というのは、なかなか勇気がいることで、できることなら助けを乞うことなしに、余計な迷惑をかけずにすまそうとする自分がいた。

しかし、これはまちがっていた。余計な迷惑をかけずのつもりであっても、助けるほうの立場になってみれば、勝手にぎりぎりまで我慢をして、手がつけられないような状態になってから助けてくれと言われるのが、一番大変なのである。助けたくても、もう助けられないかもしれない。そんな状態になる前に、もっと早く、できることなら「手を貸しましょうか」と申し出た時に言ってくれれば、いくらでも助けようがあったのに……。助けるほうとしても、助けられるほうとしても、そういう場面を何度となく体験した。

見えないものに囲まれて、確かなものなどひとつもない世界で生きているかぎり、いろんなことが起きる。21世紀の便利な都市生活の中にいると忘れてしまいがちだが、そもそも、ひとりの人の生涯にわたって、安泰でなにも起きないなど、歴史を振り返っても、一度もあったためしがない。繰り返し、繰り返し、大小さまざまな自然災害や、日々のもめごとから紛争、戦争に至るまでの人災、寄せては返す波のようなパンデミックに見舞われ続けてきたのが人間の歴史であって、今この世に存在しているのは、その中で手を貸したり、借りたりしながら、生き延びてきた者の末裔だ。手を借りて助けられる喜び、手を貸して助ける喜び、このふたつは常にセットになっており、その中に希望を見出すのが、人間の自然な姿であるならば、助けを乞うことは、遠慮して避けるような行為ではなく、むしろもっともっと活性化させていいものだ――そう理解することで、私は、自分が日本で身につけてしまったおかしな呪縛から、自分を解放することができた。

言葉を学ぶことの本然は、助けてもらうことができるか、助けることができるか、にあるのだとあらためて思う。言葉ができないとは、伝えるべき大事なことが伝えられないこと、「助けてください、手を貸してください」と言えないこと、「手を貸しましょうか」と言えないことだ。それは、外国語に限らず、母国語であってもだ。そして、もし、それができないとすると、その先にあるのは、ピエール・ブール※1の小説「猿の惑星」※2に登場する、言葉を失ったサル、という絶望的な人間の姿、まさに、希望の対極にある姿だ。希望がない世界とは、経済力を失った世界でも、快適な環境を失った世界でもなく、言葉を失った世界のことを言うのだろう。

だから、見えない脅威に囲まれて、じわじわと生きる環境が悪化する中に、希望のある未来を創造しようと思うなら、まずは、フレッド・ロジャースのお母さんが繰り返し言っていたように、自分のそばに必ずいる、見えていなくても必ずいる、助けようとしてくれている人を探すことだ。そして、もっともっと助けてもうらおうとすることだ。希望の種のひとつ目は、助けを乞う自分の中にあるのだから。そして、無事助けられたあかつきには、今度は、助ける人になればいい。手の届くところにいる誰かを助けようとする自分もまた、希望であるのだから。End

※1 ピエール・ブール Pierre Boule(1912-1994)フランスの小説家
※2 ピエール・ブール「猿の惑星 La Planete des Singes」東京創元社。「猿の惑星 The planet of the apes」は20世紀フォックスから1968年に映画化され、2017年の「猿の惑星聖戦記 War for the Planet of the Apes」までシリーズ化されている。

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