【阿部雅世さんの連載10】見えないものと生きてゆく時代に――非日常のルーデンス

連載10 非日常のルーデンス

世界規模でのパンデミックが一向に収まらないことを受けて、気がつけば、非常時の暮らしの作法が、日常の作法として定着し始めている。人とは常に互いに距離を取り、身体的な接触は極力避け、マスクを着用して顔の半分を覆う。室内に多人数が集まるような会合は避け、不特定多数の人が触れるものには素手で触らないようにし、頻繁に手を洗うよう心がけ、食べ物を他人と分けあうようなことはせず、しゃべりながら食べることは控える……。

無意識に行ってきた暮らしの習慣やしぐさにまで制限がかかるようになると、こんな暮らし方を続けて、人は人間らしく生きていくことができるのだろうか、という疑問が沸いてくる。と同時に、こうなる前のあたりまえの暮らし方が、果たしてどれほどまでに人間的なものだっただろうか、という疑問も湧き上がってくる。そして、それを突き詰めていくと、そもそも人間らしく暮らすとはどういうことなのか、何をもって「人間らしい」とするのか、という問いにたどり着く。この問いはおそらく、非常時に向きあうたびに、人間が繰り返し自身に問うてきた、根源的な問いなのだろう。歴史を紐解くと、人間らしさの本然を言いあてようと苦心した先人たちによる、さまざまな定義が現れる。

現生人類を「ホモ・サピエンス Homo Sapience―知性の人」と命名したのは、18世紀のスウェーデンの博物学者、カール・フォン・リンネ※1だ。分類学の父と呼ばれ、あらゆる生物を2語のラテン語で表現する二命名法を体系づけたリンネは、のちに「ホモ・エレクトス Homo Electus―直立する人」と命名される猿人に比べても、その賢さが絶対的に上のレベルにあるという点――すなわち、アタマガイイということを「人間らしさ」の本然であると定義した。

人間が道具や機械を用いて本格的に自然を支配し始めた19世紀になると、ドイツの哲学者マックス・シェーラー※2が、人間の自意識の中の自己定義のひとつを「ホモ・ファーベル Homo Faber―工作する人」と命名している。道具をつくり、工作ができること――アタマガイイ上に手先も器用だ、ということを「人間らしさ」の本然とする定義だ。

しかし、知恵を働かせ、器用に道具をつくり上げ、驚異的なスピードでありとあらゆる工作をした結果、人間がしでかしてしまった致命的な間違い――地球環境のバランスを破壊し、自らも含めた多くの種を絶滅の脅威にさらすという、他の生きものが絶対にしないような間違い――を思うと、人間という生きものが、sapientia(知性)やfabras(創造)などという輝かしいラテン語にふさわしいのかどうか、疑わしい気もしてくる。実のところは、手を使って何かをつくってみることが楽しくてたまらない直立するおサルと、余計なことをあれこれ考え始めたヒトとの間を、行ったり来たりしているだけなんじゃないだろうか……。

それにしても、地球規模でのこれだけの惨状を引き起こし、未来の世代までをも滅ぼそうとする悪魔のような素質が、本当に「人間らしさ」の本然だろうか――それもまた、違うような気がする。たぶんだけれど、今、私たちの目の前にある惨状は、少々せっかちなところがあるおサルの一種が、他の生きものに比べて格段にアタマガイイとか、手先が器用だとか、自尊心をくすぐられる自画自賛の命名にポーっとして、調子に乗りすぎた結果なのだろう。

20世紀に入ると、自己利益ばかりを追及するようになった社会の中に、遊び心という見えないものが欠如しつつあることに気づき、その行く末に危機感を抱いたオランダの歴史学者 ヨハン・ホイジンガ※3が、「ホモ・ルーデンス Homo Ludens―遊ぶ人」という命名を試みている。ホイジンガは、ヨーロッパ、インド、中国、日本まで、古今東西の言語や文化の歴史に精通し、それを鳥瞰して遊びの概念を考察することによって人間の歴史の再構築を試みた博識の学者だ。1938年に発刊され、今日まで読み継がれている不朽の名著「ホモ・ルーデンス」※4の中で、ホイジンガは「人間の本然としての遊び」を定義する5つの要素を挙げている。

それは、自由に行われるもの。自由そのものである。
それは、いつもの生活から離れた、非日常の中で行われるものである。
それは、現実的な場所や時間に、縛られないものである。
それは、ルールを創造することがルール。極めて厳格なルールを要するものである。
それは、物質的な利益や金儲けには、繋がらないところにあるものである。(阿部訳)

人間の本然としての遊び。それは、できあがっているものに遊ばれているような暇つぶしの娯楽とは異なるもので、人間の自由に空想し創造する能力を、大いに要する行為であるという。この5つの要素を眺めていると、パンデミックがもたらしている、かつての日常とは一線を画した、この非日常の時間、これまでのルールが機能しなくなり自分でルールをつくらなければならなくなったこの時間、利益の追求にすら意味が見いだせなくなっているこの時間というのは、遊ぶという本然を持った人間が、その本領を発揮するのに、この上ない好条件を備えた時間のようにも見えてくる。  

実際、この非常時の「非日常」は、こうでなければ、こうするべきだ、という、これまでのルールから、ずいぶんと私を自由にしてくれている。非常時ならではの新しい暮らし方を自由に創造したり、それまでのルールの中ではできなかったことを提案したりするのに、これほどふさわしい時間が、今までの私の人生にあっただろうか――。

「ホモ・ルーデンス―遊ぶ人」を、もう一歩踏み込んで訳すなら、「空想と創造の力で、より人間らしくあろうとする人」とも訳せるだろう。そろそろ20カ月を超えようという閉門蟄居生活の中、尽きない不安は否定できないながらも、その一方でなんだかウキウキと非日常を遊ぶことに私を邁進させているのは、自分の「人間らしさ」を必死に取り戻そうとする、私の中の本能なのかもしれない。

英語のウィキペディアの中には、Ludensの新しい解釈として「創造的な精神の力を駆使し、世界の問題を解こうとする人」が、加えられていた。見渡せば、この世のものとは思えない量のプラスチックごみであふれる海や、廃棄されてゆく食糧の山に挑戦する新しい遊びを次々と創造し、見過ごしてきた問題を、嬉々として解こうとしているルーデンス、人間の尊厳をかけて、未来の日数を増やす新しい遊びに熱中している「非日常のルーデンス」が、世界中にいる。この非日常が続く時代を生きる世代の人類こそ、「ホモ・ルーデンス」という名にふさわしいのだろう。ここから先は、ぜひそう呼ばれる人類の仲間でありたいものだ。End

※1 カール・フォン・リンネ Carl von Linné(1707-1778)スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。
※2 マックス・シェーラー Max Scheler(874-1928)ドイツの哲学者・社会学者。哲学的人間学の提唱者。
※3 ヨハン・ホイジンガ Johan Huizinga(1872-1945)近代文化史の祖と呼ばれているオランダの歴史学者。著書に「中世の秋」「ホモ・ルーデンス」「エラスムス」「わが歴史への道」などがある。
※4「HOMO LUDENS-A study of the play-element in Culture」(写真の阿部の蔵書は、1949年にホイジンガ監修の英語訳を反映して出版されたRoutledge&Kegan Paul,Ltd初版本のリプロダクションとして、2016年にAngelico Pressにより出版されたペーパーバック)。日本では、原著のドイツ語訳からの邦訳版として「ホモ・ルーデンス」高橋英夫訳(中公文庫プレミアム)が、また原書オランダ語の本からの邦訳版として「ホモ・ルーデンス―文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み」里見元一郎訳(講談社学術文庫)が出ている。

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ウサギ・エレクトス、直立して工夫するのは、人間のみにあらず。
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