第17回 良心再生の時
英語のcrisis(危機) の語源は、古代ギリシャ語のκρίνειν(決断する)という言葉にあるという。消化しきれぬほどの条件や情報とともに、日々押し寄せてくる見えない危機の大波小波は「それで、あなたはどうしますか」と、毎日のように、小さな決断を促してくる。
生まれ育った土地を離れ、できあいの道がほとんどないようなところに、自分を放り出して暮らしてきたので、自分のことは自分で決めるというのは、私にとっては、何も新しいことではない。思えば、人生は、大なり小なり、小さな決断の積み重ねでできている。毎回、半信半疑ながらも、小さな決断で踏み出した先に「こう来るかあ」「そう来るかあ」と、想像をはるかに超えるかたちで現れたのが、今では過去となった、これまでの私の未来で、これからも、きっとそうなのだろう。
条件や情報を吟味し、ある程度の目星をつけ、こっちかな、と一歩を進めてみるわけだけれど、そのまま思っていたような未来になることなど、まずない。自分の小さな頭で想像できる未来など、本当にたかが知れていると、つくづく思う。できることしかできないし、なるようにしかならず、どちらに踏み出し、どの道を通ろうとも、たどりつくのは、きっと同じ一点でしかないのだろう。それでも、その小さな決心に意味があるとしたら、それは、ある一点にたどり着くためではなく、その道すがら、何かに出会い、誰かに出会い、希望を発見するためなのだろう。だから、一歩が踏み出すための、きっかけさえ見つかれば、もうそれでよしと思っている。
いくつもある可能性の中から、たったひとつの道を選ばなければならない、というのは、まだいいほうで、選ぶべき道などひとつも見えない行き止まりの窮地で、決心を迫られることもある。それでも、行き止まりの先の、目を開けているのか、閉じているかもわからないような暗闇の中に目を凝らしていると、「お、それは、もしかして道?」というような、誰も通ったことがない道が急に見えてきて、えーいと踏み出してしまった一歩もある。そうして、昨日はあっち、今日はこっち、と、一歩を進めた千鳥足の痕跡は、どんなに頼りなく紆余曲折しているだろうかと思うけれど、振り返って見ると、凡庸なただの一本線だ。
そんなことを考えていたら、スタジオの壁に貼っていた、鈴木大拙のことばの中に「生命は一本の線」と、すでに書かれていることに気づいた。私は今まで、何を見ていたのだろう――。
生命は、時という画布の上に、みずから一本の線を描く。
生命は「墨絵」である。
ためらうことなく、理解しようとすることなく、
ただ心で思い描きながら、一筆限りで、描かねばならぬ。
――鈴木大拙 D. T. Suzuki※1
これは英語で書かれたエッセイの中の一文で、最初に読んだ邦訳※2の中では、「ためらうことなく、知性を働かせることなく、ただ一筆限りで、描かねばならぬ」と訳されていた部分だ。鈴木大拙という知性の塊のような人が、「知性を働かせることなく」と言うとは――。この知性とはどういう意味だろう、と原文をあたってみたら、この知性と訳された部分には、intellectionという見慣れない単語があり、調べてみると、「理解しようとする思考の過程または行為、すなわち、想像の対極にあるもの」と、解説されていた。※3そうか、鈴木大拙にとっての「知性を働かせることなく」とは、「理解しようとすることなく」という意味でもあり、同時に「心で思い描く」という意味でもあったか。そう感じ入り、その解釈を頼りに、
ためらうことなく、理解しようとすることなく、
ただ心で思い描きながら、一筆限りで、描かねばならぬ。
と自分なりに訳してみたら、何か腑に落ちたので、それを書き出して、何年も壁に貼っていたのだった。
予測不可能な見えない脅威と生きてゆく時代には、理解できぬものを無理に理解しようとせず、前に進むのがよいのかもしれない。見えているものを積み上げて理解しようと呻吟するのではなく、見えていないものを心で思い描きながら、ただそれを発見するために、一歩を踏み出す。そんな風に進めばよいのだろう。
誰にも見えていない、理解不可能なものを発見する達人であったブルーノ・ムナーリは、その発見の心得を、「彫刻家が、石の塊の中から、作るべき彫刻に必要のない部分だけを、ノミでそぎ落としていくこと」に例えている。
でも、それを掘り起こしてゆくときに、秘められた彫刻を傷めないように、どこで、そぎ落としを止めたらよいのか……加える代わりに、そぎ落としてゆくことは、物事の核心を見抜き、その真髄に至ることである。真髄に至るには、時間や流行を除外しなければならない。
――ブルーノ・ムナーリ※4
見えているものの下に隠れている、理解不可能な見えないものを思い描き、それを傷めぬように注意しながら、見えているものを、少しずつ、丁寧に、そぎ落としていく。邪念と矛盾と混沌に満ちた思考の中から、いらぬものを見極め、断捨離していくという作業を経てのみ、人は、雑多な思考の下敷きになっている、心の中の本然を、目にすることができるのだろう。
積み上げることを良しとする時代において、そぎ落としていくことは、評価されない行為であったかもしれない。しかし、流行や時間に追い立てられて、もっと早く、もっとたくさん、もっと便利に――と目に見える成果を積み上げた先に、どうしてよいかわからないほどの混沌と絶望しか見えないのならば、私たちは、すべての葉っぱを一度落として人間の本然を再生する、新しいそぎ落としの時代の入り口に、もう立っているということかもしれない。
思考の断捨離の果てに見えてくる、人間の本然――それは、レイチェル・カーソン※5が言うところの「心の深いところに備わっている、自然界とその命に反応する人間性」、ヨハン・ホイジンガ※6が言うところの「ホモ・ルーデンスの遊び心」であるだろうと、私は信じている。そして、それこそが、どんな人間の中にもかならずあるはずの、良心そのものなのだろうと思う。なぜなら、それらは、人間の子どもが、生まれながらにして、必ず持っているものだから。
※1 鈴木大拙 D. T. Suzuki(1870-1966)日本の哲学者、仏教学者、文学博士。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化について、世界に広く知らしめた哲学者として知られる。Practical Method of Zen Instruction, D.T.Suzukiより翻訳抜粋。
※2 「禅」工藤澄子訳(ちくま文庫)
※3 intellection: The action or process of understanding, as opposed to imagination. Oxford English Dictionary
※4 ブルーノ・ムナーリ Bruno Munari (1907-1998) イタリアのデザイナー、教育者。「ムナーリのことば」(阿部雅世訳 平凡社)p.66より抜粋。
※5 レイチェル・カーソン Rachel Carson (1907-1964) アメリカ合衆国の海洋生物学者。今日まで続く環境保護運動のきっかけとなった20世紀の名著「沈黙の春(Silent Spring)」の著者。
※6 ヨハン・ホイジンガ Johan Huizinga(1872-1945)近代文化史の祖と呼ばれているオランダの歴史学者。「ホモ・ルーデンス」の著者。
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