去る10月9日ドイツ・ハルツ地方の古都ゴスラーで鬼才デヴィット・リンチ監督に「カイザーリング(皇帝の指輪)」が授与されました。というと地方映画祭の特別賞のように聞こえますが、カイザーリングは功績を認められた現代美術家に贈呈される賞。高松宮殿下世界文化賞のような高額の賞金はありませんが、世界に数ある国際美術賞のなかでも特に栄誉な賞です。受賞理由は「デヴィット・リンチほど映画と造形芸術の境界線を打破したクリエイターは存在しない」ということ。
その昔は神聖ローマ帝国皇帝の居城だった「カイザープファルツ」という世界文化遺産の中で授賞式が行われます。セレモニーはゴスラー市長が議長を務める公開特別市議会という形式をとり、皇帝を賛美する大壁画(ヘルマン・ヴィスリツェヌス作)を背景にカイザーリングが授与されるのです。
カイザーリングはヴォルプスヴェーデに工房を持つジュエリー作家、ハートフリード・リンケのデザインで、毎年受賞者の指に合わせてつくられます。金のリングに透明なアクアマリンをはめてあり、1050年にゴスラーで生まれた神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世の印章が彫り込まれています。デヴィット・リンチは「これまで時速6マイルで走っていたのが、突然時速60マイルで走り出したような、それは素晴らしいフィーリングです」と受賞の喜びを表現していました。
ゴスラーは中世にタイムスリップしたかの街並みで人口は4万人ほど。本当に小さな地方都市ですが、ここに暮らす現代美術奨励協会(VFK)の会員は4,000人を数え、コンテンポラリーアートに対するオープンな姿勢がグローカルな街づくりを支えています。
カイザーリング授与は今年で35回目。マックス・ビルやヨゼフ・ボイス、マシュー・バーニーなど歴代受賞者が美術界のスーパースターになり、回を重ねる毎に賞の価値も、そしてゴスラーの文化価値も高まってきました。
しかし、最初からゴスラー市と市民が一丸となって美術賞設立を推進したのではありません。1970年代半ばにペーター・シェニングというひとりの窓職人が当時のゴスラーにしてみると途方もないビジョンを抱いたことに始まるのです。
ゴスラーは16世紀以降衰退し、街全体が中世博物館というモダンに取り残された西ドイツの辺境の街でした。市費は使わず現代美術奨励協会が賞を寄贈、芸術家をゴスラーに招待し作品を市民に紹介するという提案で市と合意。ここで地方文化に貢献した故郷の芸術家ではなく、夢は大きくと世界の巨匠を受賞対象にすると決めたところがすごい。まずヘンリー・ムーアに授与したいと、ムーアを訪ねたところ「失礼なのですが、ゴスラーとは一体全体どこにあるのでしょうか?」と聞かれて、それでもめげずにムーアを一度ゴスラーに案内したところ、街の美しさと人々の熱意に心打たれて受賞を快諾してくれました。1528年建設という木組みの家の「メンヒェハウス現代美術館」で受賞者の大規模な個展が開かれます。
土曜日の受賞式を前にまず木曜日に展覧会場で記者会見が開かれます。では記者団の質問に答えるリンチの模様をご覧ください。
記者会見の途中で「ちょっと一服させて頂きます」と庭に出て煙草(銘柄はアメリカン・スピリット)休憩が入りました。ミステリアスな中世の木組みの家の迷宮街、ゴスラーで映画撮影することを想像できるかという質問には「『ツイン・ピークス』の続編がイメージされるね」とのこと。最後のほうでは好きなミュージシャンを3人あげてくださいなどという質問も飛んで、「スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ジミ・ヘンドリックス」そしてうーんとかなりの沈黙が続き3人目は意外にも「ウラジーミル・ホロヴィッツ」の名前が上がりました。
リンチの個展はというと、美術館の建物自体が人間の深層心理のようにところどころ歪んでいたりするので、リンチの作品とは阿吽の呼吸でした。
短編映画を鑑賞できるコーナーもあります。映像と対面するかたちで、映画館のクッションの効いたビロード張りの椅子でなく、座に厚いなめし革を張った無骨な木の骨董の椅子で鑑賞です。
「ストーリーは私ではなく鑑賞者のあなたがつくるものです」と促されて作品のディティールに見入っていると私だけのストーリーが本当に頭に浮かんできました。
ゴスラーの今にも崩壊しそうな木組みの家の屋根裏にひとりのタイポグラファーがいます。彼は時間をハサミで切り刻んで新しいアルファベットをクリエイトしていました。(文・写真/小町英恵)
この連載コラム「クリエイティブ・ドイチュラント」では、ハノーファー在住の文化ジャーナリスト&フォトグラファー、小町英恵さんに分野を限らずデザイン、建築、工芸、アートなど、さまざまな話題を提供いただきます。