和田精二(湘南工科大学教授)書評:港 千尋 著
『記憶―「創造」と「想起」の力 』

『記憶―「創造」と「想起」の力 』
港 千尋 著 (講談社選書メチエ 1,600円)

評者 和田精二(湘南工科大学教授)

「仮想現実の危うさ、手を使わないことは脳を使わないこと」

デザインを考えることは人間の脳を考えることに直結する。デザイナーの脳について語ってくれる本に出会うことは滅多にないから、脳に関わる記述からデザインに関わる断片を集めて知識としている。その程度であるから、具体的な問題に直面した途端にわからなくなる。

私の問題意識の1つに脳と手の連携のことがある。少し前にエレクトロニクス業界のデザイン管理者が集まった席で話題になったのは、最近のデザイナーは画面の中の仮想現実空間でのみデザインを行い、自分の手でラフモデルをつくることをしなくなったが、それで大丈夫なのかということだった。コストの問題などが従来のプロセスを消滅させている厳しい現実のなか、自分の手でクレイをいじってきた年配デザイナーは、手の感覚を駆使しないでデザインすることの不自然さに気づきながら現役を退きつつある。デザイナーは、うまく形を決めた瞬間の興奮の積み重ねを、形の創造のコツとして脳に刻み込んでプロになってきたはずである。デザイナーが自らの五感をいきいきと使うことを放棄したことに危うさはないのかどうか。

今、仕事の環境を変えた私の前に同じような問題が現れてきた。ドラフターによる製図経験なしにCADを教えることの是非の問題である。設計に関係した学会誌を調べたところ、CAD化が定着した企業から大学・高専に対する手描き製図能力向上の強い要請が寄せられていることがわかった。興味を引かれたのが、手描き図面がそこそこに書けるようになってからCADに従事させているという企業からのアンケートの回答だった。それも、線の濃淡や太さを感覚的に身に付けさせてからCADを教えるほうが効果的であるという。CADを直接教える場合の図面の読解力、形の表現力だけでなく、立体の認識力の低下を問題視する声が大きくなっている。こうした例は、前述のデザインにおける問題同様に、身体感覚による記憶の問題と関係しているのではないか。

そうした問題意識を持ちながらこの本と出会った。この本に対する期待は、記憶の問題に対して人間の創造活動の現場からアプローチするという珍しい試みであることと、著者が大脳生理学者ではなくて写真家であることだった。著者は、記憶はコード化された静的なデータとして頭のどこかに蓄積され、必要に応じて呼び出されるのではなく、刻々と変化しながら現れる動的なシステムとして捉えたほうがよいということを、彫刻家や画家の創作活動を通して検証している。

彫刻家ジャコメッティの指が石膏や粘土といった物質から像を立ち上げてゆく過程を、「ジャコメッティの指は形而上的なものによって動かされているのではなく、触覚を中心にした身体的な記憶によって動いているということである。そこに神や絶対性を見るのは、確かに見る者の自由ではあるが、しかし作家が感じていた具体的な手触りを見落としてはならない」とする。ここで著者が主張したいのは、ジャコメッティの指先から生まれる形は彼の記憶のなかに痕跡としてすでに存在しているのではなく、彼の指先が「粘土や石膏や紙といった物質に触れる瞬間瞬間、その場において生成してくる」という記憶の動的システムである。

生成する形は突然に現れるものではない。「身体感覚は記憶が成立するための前提条件であり、身体イメージは絶えず生成変化する記憶にとっての、基本的な枠組みとなっている。絵画や彫刻だけでなく、写真や映像芸術などあらゆる芸術創造にとって、身体感覚と記憶の動的な関係は本質的である」と言い切っている。この本と出会ったことの至福感はここに尽きる。

脳生理学者の久保田 競氏は、右手に力を入れ左手で形を整えるおにぎりづくりや、右手で包丁を動かし左手できざみ幅を調整する料理の例を挙げながら、右手と左手の連携プレイの凄さを説いたうえで、カントの「手は外部の脳である」という言葉を引用し、手を使わないことは脳を使わないことだと断定している。脳についてはわからないことだらけだが、仮想現実に傾斜し過ぎることの危なさを直感的に感じている。(AXIS101号/2003年1・2月より)

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