深澤直人(デザイナー)書評:
新渡戸稲造 著『武士道』

『武士道』
新渡戸稲造 著/矢内原忠雄 訳(岩波文庫 420円)

評者 深澤直人(デザイナー)

「武士道とインタラクション」

米国で暮らしていた90年代初頭、この本を読んだ。いろんなことに迷っていた。この本の冒頭で著者の新渡戸稲造とベルギーの法学者ド・ラヴレー氏は話している。「あなたがたの学校では宗教教育がないと……」。新渡戸は答える、「ありません」。ラヴレー氏は驚いて、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」。新渡戸は即答できなかった。新渡戸は言う。「私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道であることをようやく見いだしたのである」(本文より)。

この本は昨今大きな話題になってきた。映画「ラスト サムライ」の元になっているとも聞く。『ビジュアル版 対訳武士道』(奈良本辰也訳、新渡戸稲造博士と武士道に学ぶ会編、三笠書房)も併読すると参考になる。

日本人は迷っている。何が正しく何が間違いかを判断できなくなってきている。私が米国で長く暮らしていた頃は、自分の中の日本人としての感覚や習慣と米国人としてのそれが入り交じって相互の価値判断がうまくできないときがあった。日本の駅で新しいシステムに戸惑い、人の流れを滞らせたのは自分ではないかと謝る老人の姿を見て、日本人はどこまで謙虚なんだと、そのシステムの悪さを嘆いた。横並びのいくつもの窓口に対し別々に列ができることに腹立ち、その非合理的なシステムが信じられなかった。

グローバルなデザインの総合的な美を考えるとき、その地の習慣や文化、感情や宗教などとの関係性を無視することはできない。デザインの善し悪しの判断は、ことに日本という固有の文化や思想をもった国においては人と人や、人とものの関係性における美の判断が必要になる。

本書の解説は義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義……と進んでいく。ことに礼の章に興味を持った。「礼は品性のよさをそこないたくないという心配で実践されるならば貧弱な徳行である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現われたるものである」。

当時は、いや今もそうかもしれないが、礼法をかたち(動作)と理解し、その動作がおかしいと欧米から批判めいたことを言われることが多かったようである。新渡戸はこれに対し「西洋が絶えず流行に従うことと比較して、……流行でさえ、私は単に虚栄の移り気であるとは考えない。かえって私はそれをもって、美に対する人心の絶えざる探求であると見る。……それは一定の結果を達成するための最も適切なる方式について、長き実験の結果を表すものである。何かをなさんとする時は、それをなすに最善の道があるに違いない。しかし最善の道は最も経済的であると同時に最も優美なる道である。……」と言っている。

礼儀は人への同情的思いがかたちになったもので、それは長い間の探究によって無駄のない優美な立居振舞になっていったということだ。無駄のない立居振舞こそインタラクションデザインの極みである。相手の意思を察知し、それに思いやりをもって対応すること。物理的な動作の流麗さは、結局は人間の心理も含めて関係を円滑にしていることとなる。茶の作法は優美を定義した最も経済的な態度で、その方式は結局時間と労力を省いているという。

今日本にはかたちだけの作法のかけらが残り、欧米の合理性のシステムが入り込んだなかで困惑している。合理性を冷たいものと誤解し、優しさとか癒しとか、愛などという甘い感傷に浸りたがっている。人間同士の身体的、生態的接点を避け、記号化した情報のやりとりにすがっている。礼も作法もある意味クールな合理性のなかに成り立っている。情は現象と化してしまったかに見えるほど流麗なインタラクション(作法)のなかで際立つものである。操作画面のなかでおじぎをするキャラクターやお礼の言葉を発する機械に、人は本当に心癒されるのだろうか。(AXIS 114号 2005年3・4月より)

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