メディア美学者・武邑光裕が見る、スタートアップが牽引するベルリンの未来

▲ベルリンを東西に横切るシュプレー川。藻による水質浄化に取り組み、「泳げる川に」をスローガンに、20年間続いているアートプロジェクト「フルスバート」。 ©Flussbad Berlin e.V.

東西を分断していた壁が崩壊してから、2019年で30年を迎える。現在、ベルリンの都市は、大企業による規模の経済ではなく、フリーランス、アーティスト、ミレニアル世代の起業家などによる個の経済活動、いわゆるスタートアップが支えているという。近い将来、スタートアップが構想するジャパンタウンも誕生する予定だ。2015年からベルリンに居住し、この都市の変化を見続けているメディア美学者の武邑光裕氏に話を伺った。

▲旧発電所を改装した巨大アートスペース「クラフトヴェルク」。毎年夏、インダストリアルとテクノの祭典「ベルリン・アトナル」が開催される。©Camille Blake

▲廃材を利用した独自の建築様式を持つネオヒッピー・ヴィレッジ「ホルツマルクト」。反メディアシュプレー計画の先陣を切り、今世界中から人々が訪れている。

シュプレー川から始まった

武邑氏は壁が崩壊し東西統合が始まった1990年からベルリンを訪れ、刻々と変化する都市の姿を長年にわたり観察してきた。

壁崩壊直後はカオスの世界だったという。やがて市の中心部を流れるシュプレー川両岸にアーティストやDJ、ハッカー、ネオヒッピーたちが自然発生的に集まり、「ベルクハイン」に代表されるテクノ・クラブや最大級のアート・スペースである「クラフトヴェルク」が生まれる土壌となった。

▲シュプレー川沿いのメディアシュプレー計画で誘致された「ナウホテル」。建築家のセルゲイ・チョーバンが設計し、カリム・ラシッドがインテリアを手がけた。

一方、街には近代的な建築物が次々に建設され、道路や地下鉄などのインフラ整備が進められた。ドイツ政府は2000年代初頭にベルリンを欧州一の経済首都にすることを目標に「メディアシュプレー計画」を打ち立て、多国籍メディア企業や外資ホテルなどを次々にシュプレー川両岸に誘致。建設ラッシュが始まった。

しかし、自然の生態系や街の景観破壊に反対する市民運動が起こり、2010年にその計画は事実上白紙に戻された。そして、これから建設できる建物は河岸から50m以上離すこと、このエリアはソーシャル・イノベーションやベルリンの文化・アートの活性に寄与するために利用されなければいけないなど、さまざまな規制が定められた。

▲ラース・エベールによるNIONのCI

スタートアップによるジャパンタウン計画

シュプレー川沿いにある「ホルツマルクト」は、ベルリンのネオヒッピー・ヴィレッジとして、ボトムアップ・プロジェクト(行政主導に対する反対と、市民の具体的な行動による計画)を象徴する場として世界の注目を集めているが、これに続くのが、2016年からシュプレー川河岸にイノベーション・エコシステムの活動の場として構想された、ジャパンタウン「NION(ニオン)」の創設計画だ。その中心人物は、アンドレアス・クリューガーとリョウタロウ・チクシ(筑紫遼太郎)。彼らもスタートアップである。

アンドレアスは、デザインアカデミーやコワーキングスペースの老舗である「ベータハウス」、3Dプリンタや高精細デジタル印刷に対応した大規模画材店「モデュロール」の設置など、クリエイティブ産業を孵化させるクロイツベルク地区の再生に携わった都市計画家として知られる。リョウタロウは、父親がイタリア人で母親が日本人、元ニュースキャスターの筑紫哲也氏の甥にあたり、日本でデザインやマーケティングの仕事に関わった経験を持つ。

▲クロイツベルク地区のクリエイティブ産業拠点であるモーリツプラッツの大型画材店「モデュロール」。

▲NIONの主要メンバーであるリョウタロウ・チクシ(左)とアンドレアス・クリューガー。

NIONには、アートセンターやグリーン・テクノロジーのラボ、日本の伝統工芸を学ぶラーニングセンター、食やクラフトなどの商業店舗や居住施設、コミュニティガーデン、ウェルネスセンターのほか、武邑氏が提案した銭湯の設置なども計画されており、持続可能なエコシステムが形成される予定だ。

NIONは「日本と欧州をつなぐハブになる可能性がある」と武邑氏は見ている。「ベルリンは欧州の市場に直接つながり、ネットワークを構築しやすい環境があります。異なる文化が出会って新しい化学反応を生み出す場として、日本の若いクリエイターの表現活動の場として、あるいは後継者不足に悩む日本の伝統工芸や、今後、市場の縮小が避けられない日本企業にとって、5億人の欧州市場に接続する足がかりにもなるのではないでしょうか。逆を言えば、ベルリンや欧州の人々が目指す日本、彼らが求める『日本』に呼応して、日本人は何を提供できるか、どのようにパートナーシップを組めるかがカギになってくると思います」。

▲現存するベルリンの壁と監視塔跡。壁の時代、東ドイツの壮絶な監視社会をベルリンは記憶している。

これからの経済は「自己主権」がテーマに

ベルリンでは、新しい経済の姿が急速に現れている。市民の個人情報をEU域外に転送することを禁止する、GDPR(一般データ保護規則)が2018年5月25日に施行された。これまでシリコンバレーのテック企業が膨大な個人情報を蒐集し、オンライン追跡広告によって莫大な利益を得てきたが、欧州ではたびたび大きな訴訟問題になっている。なぜそのことが危険視され、それによって何が起こるのか。

「現代のデジタル監視社会では、何が起きるかわからないことに、みな恐怖を感じています。例えば、個人のプライバシーがデータ化され、アルゴリズムがそれを推量し判断をすると、ある日突然、自分がテロリストになる可能性もある。ベルリンでは、プライバシーは自分で守り、自身で個人情報を管理することを選択する人が増えています。また、個人情報には大きな経済価値があります。そのことを私たちが自覚したときに、個人と企業との新たな互恵関係が始まると思います」と武邑氏は語る。

▲オンラインで8分の口座を開設後、3日で自宅に郵送されるN26のカード。マスターカードと提携しているので、世界の約3,000万店舗で使える。

ベルリンのスタートアップビジネスのほとんどが、ソーシャル・アプリを駆使した個人と社会をつなぐもので、個人情報を自己管理するシステムになっている。

シェアリング・モビリティの革新となった「mytaxi」や「DriveNow」などは、アプリひとつでクルマとユーザーのニーズを直接つなぎ、ベルリンに不可欠な移動交通のインフラとなっている。「N26」は、パスポートがあれば8分で口座が開設でき、自分のお金を自身で管理できるモバイル・バンキングだ。創業から4年間でEU主要都市の100万人が加入し、最近ではアメリカにも進出した。2018年には医療や健康に関する個人データを自身で管理運用できるアプリもリリースされた。このサービスは、個人の病歴や投薬データを自身の同意のもとに事業者に提供すると、最適な医療サービスとつながり、医療保険の提案もしてくれる。

▲N26の口座管理。これまで事業者が専有していたリアルタイム・トランザクション通知など、数々の管理技術が個人の手に。

ロンドンやパリを超え、欧州の中心首都に

ベルリンは世界一のフィンテック基盤を持ち、個人情報という資産を自身で運用し利益を得る、「自己主権」に基づく経済活動が本格化している。スタートアップは年に500ほど生まれていて、その成長指数は世界一。この都市から新しいライフスタイルが生まれようとしている。

▲世界最高峰と言われるテクノ・クラブ「ベルクハイン」に入場できるのは、バウンサー(ドアマン)に選ばれし者のみ。この入口から物語が始まる。

今、この都市の文化や新しいライフスタイルに惹かれて起業家やクリエイター、アーティストが世界中から集まってきている。

「これまでイデオロギーや衣食住もすべてが異なり、隣り合わせでありながら断絶して暮らしていた人々が、この30年間でさまざまな壁を乗り越え、ひとつの都市として未来に向かおうとしている。その姿が世界中の大きな関心事になっています。今まさにベルリンを発火点として、ここから世界を動かすような大変革が始まろうとしているのを感じます」。

武邑氏は、今後数年でベルリンはロンドンやパリを超えて、欧州の中心首都になると確信している。「ベルクハインを頂点とするクラブカルチャーだけでなく、新たな経済の姿――自己主権経済に関心のある方は、ぜひ現地に来てその可能性を体感してみることをおすすめします」。

▲©Norman Posselt

武邑光裕(たけむら・みつひろ)/メディア美学者。専門はメディア美学、デジタル情報学、GDPR経済学。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学情報デザイン科、東京大学大学院新領域創成科学研究科、札幌市立大学デザイン学部(メディアデザイン)で教授職を歴任。2014年、札幌国際芸術祭ゼネラル・プロデューサー。2015年よりクオン株式会社ベルリン支局長、2017年からはCenter for the Study of Digital Life (NY)フェローに就任している。近著に「さよなら、インターネット―GDPRはネットとデータをどう変えるのか」(ダイヤモンド社)、「ベルリン・都市・未来」(太田出版)。ベルリン在。