マックス・リヒターの
「スリープ」は、真夜中から朝へのスペキュラティブな音楽体験

▲Photo by Mike Terry

マックス・リヒターは実験的な作品で知られる音楽家。コレオグラファーやアーティストとの協業もさることながら、クラシックを起点にポスト・ロックの影響も受け、エレクトロニックミュージックを彷彿とさせる低周波音のリピートで若いファンから絶大な支持を得ている。その彼が作曲した「スリープ」は1曲が8時間の超大作。演奏会は深夜から朝にかけて開かれる。

▲2018年5月のニューヨーク公演。会場に設置された160のベッドは演奏後ホームレスのシェルターに寄付された。リヒターの音楽はしばしばポスト・クラシックやポスト・ミニマリズムと称される。フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒはその先駆者だが、リヒターのファンは実験性を超えて、低周波からなる旋律が自らの暗く奥深い心のうちを刺激することを期待している。Photo by Mike Terry

深夜0時に始まるパフォーマンス

「スリープ」の演奏会は今年、アメリカ・オースティンのイベント「サウス・バイ・サウスウエスト」と、ベルギーの「アントワープ・バロック・フェスティバル」の一環で開かれた。前者はコンサートホール、後者は聖母大聖堂と全く異なる環境だったが、寝袋やブランケット、枕といった寝具を持参した観客が、椅子ではなく、ずらりと並んだ簡易ベッドに横たわるというユニークな光景は同じだ。深夜0時に開演し、朝8時頃に終演となる。

「通常の音楽パフォーマンスは、観客と演奏者の間に暗黙のルールが存在するが、スリープではそれをなくしたかった。つまり演奏中、観客はベッドの上に座っていても、寝ていても、歩き回って会場の外に出て行ってもいい。音楽はさまざまなヒエラルキーのうえに成り立っているが、スリープはデモクラティックな状況を生み出すような実験的な要素を含んでいる」とマックス・リヒターは言う。ヒエラルキーとは例えばオペラとエレクトロニックミュージックといったジャンル間にあるものやリスナー層を指すのだろう。スリープのワールド・プレミアは2016年3月にベルリンの元発電所を改造した会場で開かれた。以降、世界各地の公演は常にチケットが完売するほど人気だ。

「8時間という長時間の演奏中、観客は心の中で眠りとは何かについて自問自答するだろう。意識的か無意識かは定かではないが、睡眠という習慣に音楽がランドスケープのように働くことで、ある種の自己探求が生まれるのだ」(リヒター)。

観客を今まで想像もしなかった眠りの世界へ導き、未来の睡眠を予感させるようなスリープは、まさにスペキュラティブデザインならぬ、スペキュラティブミュージックと呼べるものではないだろうか。

▲2018年7月、ロサンゼルスのミュージックセンターで開かれたスリープ初の野外公演では、560ものベッドが会場を埋め尽くした。Photo by Mike Terry

睡眠時の脳を刺激する低周波音

リヒターはスリープ誕生の経緯を次のように説明する。「私たちの生活は四六時中、(スマートフォンやタブレットから受ける)データによって歪みが生じている。私も個人的に(この悪習に)疲れてしまっていた。言うなれば、データから(解放される)ホリディが必要だと思ったのだ。スリープでは、データに時間を費やすのではなく瞑想する様を、60年代に起きた政治的なメッセージソングに結びつけている」。彼の意図を知ってか、どの公演でも長時間にもかかわらず携帯電話に触れる観客はいないという。

リヒターは作曲に際して、世界的な脳科学者デイヴィッド・イーグルマンにコンタクトを取った。また、睡眠時の意識に音がどのように作用するかを考察するなかで、ある研究に感銘を受けたとも語った。

「その研究は、(脳が)持続的に低周波音を受けると、徐波睡眠がサポートされるというものだった。徐波睡眠とは睡眠の一部であり、短期記憶が知識へと変換される過程を指している。知識とは長期記憶のこと。低周波音こそ私の信じるものだから(ピンと来たわけだ)。子宮の中で胎児は低周波音だけを聞いている。なぜなら母体がフィルターとなり、外部の高周波音を遮るから」と、私たちと低周波音の関係が生まれる前から始まっていると説明した。

スリープの主旋律は、ピアノから生まれる波動とヴォーカルの繰り返しで構成される。周波のレベルを巧みに操ることで、複雑な音楽のスペクトラムを構築しているのだ。演奏中、観客ひとりひとりの睡眠サイクルに低周波音を合わせることは
不可能だが、8時間のなかで人々の脳への作用を期待しているのだ。

マックス・リヒター/1966年ドイツ生まれの英国人作曲家。スティーヴ・ライヒ「6台のピアノ」の演奏のために6人組ピアノユニット「ピアノ・サーカス」を結成したことは有名。これまでに8枚のソロアルバムをリリースしているが、脳科学者デイヴィッド・イーグルマンの著述をもとにしたオペラ「Sum: Forty Life from the Af terlife」(2012)、人工の雨の中でダンサーが踊るパフォーマンス「Rain Room」(2012)など活動は多彩。映画やテレビドラマにも楽曲を提供する。Photo by Mike Terry

音楽はアイデアを試すツール

通常コンサートは夜開かれ、終演後観客は終電を逃さないように足早に家路へと向かっていく。人々にとっての演奏会やライブは1日が終わる前のエンターテインメントだが、スリープは反対に1日の始まりである朝8時頃に幕を閉じる。そのまま仕事へ向かう人もいるが、なかにはコーヒーを片手に同じ体験をした者同士で感想を語り合ったり、自然とヨガのコミュニティが生まれたりしている。

「個人的にはスリープを違う時間帯に演奏したいとは思わない。楽曲には暗闇からしだいに光が差し込んでいくイメージをもたせているから」(リヒター)。実際、最終楽章の「ドリーム0」では、陽の光とともに観客に目覚めを告げるべく、
高周波音が用いられている。

演奏の時間帯について尋ねていると、リヒターはベルリンのワールド・プレミアでのエピソードについて語りはじめた。会場の下階ではハウスミュージックのパーティーが夜通し行われていたというのだ。人々が陶酔状態で体を揺らし続ける上階でスリープが演奏され、観客は眠りについて瞑想する。両者の音楽性は全く異なるが、ふさわしい時間帯は真夜中から早朝にかけてと同じ。音楽には演奏されるべき、また聴くべき時間というものがあるのだろうか。

「もし夜通し演奏したら何が生まれるのか? スリープの時間帯は意図せず始めた試みだが、本来、アートとはアイデアを試す機会であり、音楽はそのためのツールだと思う」(リヒター)。音楽同様にデザインも実験的なツールになることで、人々の新しい活動を生み出せるのではないだろうか。

なお、リヒターの日本公演が2019年3月に「すみだ平和祈念音楽祭2019 マックス・リヒター・プロジェクト」としてすみだトリフォニーホールで開かれる。スリープではないが、アジア初演の「インフラ」も演奏される予定だ。End

▲2018年5月、ロンドンのバービカン・センターでの「サウンズ・アンド・ビジョンズ」は、リヒターとクリエイティブディレクターのユリア・マーを特集した4日間のイベント。ロイヤル・オペラ・ハウスが初演だった「Infra」では、同じくジュリアン・オピによるLEDフィギュアが登場した。Photo by Mark Allan/BARBICAN

デザイン誌「AXIS」196号 特集「夜と朝」より転載。

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