土産への期待感が薄れてしまったのは何故なのか?
ある陶芸家の一言から考えた「土産物が持つ本来の役割」

今年の正月、久々に藤沢の実家から江の島まで足を伸ばした。江ノ島は江戸の昔から庶民の観光地として親しまれてきた場所だが、今も変わらず賑わっていた。

▲江島神社より参道を眺める。

小さい頃、江の島に続く、江の島大橋にはたくさんの屋台が並んでいた。サザエの壺焼きを日本酒とともに食せる屋台もあった。自分が楽しめる年齢になった時にはその屋台は無く、なんとも悔しい。その並びに、“海ほおずき”と書かれたのぼりを掲げる屋台があった。笛のように鳴らすものだ、と言われ、母に買ってもらった記憶はあるが、わたしはついぞ、鳴らせた記憶がない。江の島に行けば、必ず見た“海ほおずき”ののぼりもいつしかなくなっていた。

それが、今年の正月、参道の土産物店に小さく「海ほおずきあります」と、書かれた張り紙を見つけた。びっくりして、店の奥にいた、“おかあさん”と呼ばれた女性に尋ねた。海ほおずきというのは、ナガニシ貝の卵の殻だということ、今となっては捕れなくなって久しい貴重品で、鳴らしても、洗って乾かすことで、何度でも鳴らすことができる、と教えてくれた。昔は花弁でできたレイのようだと思ったのだが、出してくれた海ほおずきは干からびミカンの皮のようだった。懐かしい海ほおずきを見ながら、土産について、ふと考えた。

▲店名は敢えて伏せておく。偶然見つけたときの感動を味わうのもいいことだ。下が海ほおずき。

“土産物みたい”という言葉は、良い例えには使われていないのではないか。土産物=人に配るためで、数を揃えられる程度の安物。もらう方も、モノへの期待はない。そんな気持ちを、暗黙のうちに皆、持っている気がする。

実際、“売れれば良い”という感覚で、土産物の開発をする作り手も多い。観光地を擁するある漆器産地に関わった時、経産省の伝統的工芸品指定の産地でありながら、土産物を意識して開発した品には、指定された原料よりも安価で扱いやすい材料を使って仕上げていた。漆が好きなわたしは思わず「あなたは漆愛好者を舐めている」と、偉そうに嫌味を言ってしまった。本当に漆が好きな人なら、高くても質の良いものを見たい。漆の産地として、そのくらいのプライドを持って欲しい、と思ったのだった。

だが、今から思えば、指定通りの素材、手法を使うと、どんどん高価になっていき、極々限られた人しか買えない。とは言うものの、産地のエッセンスを伝えるために、“ちょっと手加減した商品開発”をするのはやむを得ないのだろうか。

なかなか、結論が出しにくいことだが、思い出したことがある。

2011年は東日本大震災が起き、様々なことを考え直した年だった。北茨城にある岡倉天心が設計した六角堂も震災で流された。茨城県のデザインコンペに関わっている関係で、その年度末に、北茨城の工芸関係従事者と会う機会を持った。震災で被災したのち、工芸でどのように食べていくか、という話し合いをした。その中の、一人の陶芸家の意見にハッとささられ、今も思い返す一言がある。

「わたしは土産物が作りたいんです」。

この一言に、土産の真髄を感じた。そう言えば、小さい頃、出張から戻って来た父の土産は、必ず置物で、今も手元に置いてある。それらは決して“その場しのぎのもの”ではなく、大切な“思い出”だった。そして、情報のない時代には“その地に行った大切な証”でもあったのだ。「わたしは土産物が作りたいんです」と言った女性陶芸家は、そんな昔ながらの思いを持ち続けた人だった。“土産物”という一言を、卑下した形容詞にさせないために必要なのは、製造者の気持ちの持ちようなのかもしれない。

もっとも、今は、“旅の思い出”は写真だけで十分、という事にもなりかねない。もしくは、人を集めようとするあまり、常にSNSを気にする…という時流とのせめぎ合いがある。純粋な心を保ち続けるのはなかなか難しい。

▲今も手元に残してある、父の土産物。熊にミミズクに、アルマジロ。役には立たないが、思い出深いモノたちだ。

さて、海ほおずきの代金を渡した後、おかあさんは、一房から2個をちぎり、「無くさないように、お財布にでも入れておきなさい」と、裸の状態でポンと私の手に置き、海ほおずきに対する郷愁は、その無造作な渡し方で笑いに変わった。

土産物という特殊なジャンルは、考え始めるとなかなか興味深い。それもこれも、“観光“が成り立ってこそ。早くのびのびと旅行ができる様になることを祈るばかりだ。


前回のおまけ》

わたしにとって、木のスプーンのナンバーワンは平岡正弘さんのものだが、ステンレスのスプーンのナンバーワンはフィンランド・ハックマンのmango。角度が抜群でカレーを食べるのに最適だ。今は作られていないようだが、歴史に残る名品だと思っている。