【阿部雅世さんの新連載 1】見えないものと生きてゆく時代に――はじめに

連載1 はじめに

地球温暖化。PM2.5の大気汚染。放射能汚染。マイクロプラスチック汚染。水中や土中の生態系の壊死。変異を繰り返しながら蔓延するパンデミック。漠然とした不安。それが生み出す怖れや疑念。音もなく広がる貧困。そして、孤独。

今日の私たちの暮らしを取り囲む脅威は、目に見えないものばかりだ。それも、しばらく待てば消えるようなものではなく、さまざまに姿を変えながら、これからの人生にずっとついてくるのであろう脅威だ。そのような見えない脅威と生きてゆく時代に、私たちは、すでに足を踏み入れてしまっている。

その目に見えないものは、時間をかけて複雑に絡みあい、膨張し続けている。そして、その膨張を、この期に及んでさらに加速させているのは、私を含めた人間の、無知と無自覚、無関心である。ふりかえってみれば、どの脅威も、いつどこで暴発してもおかしくないだけの予兆を、私の意識のどこかには、着々と積み上げていた。そして、その積みあがった予兆の大波が、音もなくゆっくりと砕けるようにして、前代未聞のパンデミックの大嵐が始まった。

なにか来るのだろう、いつ来てもおかしくはないだろうとは思っていたが、そうか、見えない脅威に対する緊急警報が慢性的に響き続ける時代というのは、こういう形で始まるのか、とその到来を確信したのは、欧州からアジアへのビジネス便が、一斉に運航停止になり、国境封鎖が空前のスケールで始まった2020年の1月末のことだった。

COVID-19と名づけられたその目に見えないものは、自覚症状のない行動的な人を都合の良い運び屋として利用し、致命的な病を社会に広げていくという。無自覚で行動的な人――まさに、それまでの私ではないか。とすれば、できることはひとつしかない。私は、きわめて原始的ながら、感染抑制に最も効果的であるという、閉門蟄居、自主隔離の防御態勢を、期限を決めずにとることにした。

こんなふうに、ある日突然身動きができなくなり、あたりまえのように使いこなしていた飛び道具が一瞬で消えてしまうような危機は、これからも、繰り返し、繰り返しやってくるのだろう。ならば、そのような危機と自分がどう向きあうのか、その中で自分にできることはなんなのか、この機会によく知っておきたかったこともある。

ベルリンの都市封鎖はまだ始まっていなかったけれど、2020年、21年に予定していた十何万マイルかの移動をすべてキャンセルし、籠城しながら暮らし、仕事ができる体制を整えた。そして、ちょっとでも動いたら、天敵に気づかれてぱくりと食べられてしまうので、ひたすらじっとして身を守るという小さな虫のことを思い出しながら、台風の目の中に籠り、行動しない時間をすごし始めて、すでに20か月になる。

思えば、文明の利器と平和な国境越えの自由を謳歌し、ずっとずっと走り続けてきた。しかし、自分が動きまわることで、見える景色がある一方で、自分が静止しなければ、見えないものもある。30年近くデザインという仕事、感覚体験というテーマに関わり、見えないものには、人一倍目を凝らしてきたつもりだったけれど、走りながら目の端でだけ見てきたものや、忙しさにかまけて見過ごしてきたもの、見て見ぬふりをしてきたものが、いったい、どれだけあったことだろう……。

人の内側のどこかから湧き出してきて、あらゆる種の見えない脅威から、普遍的に身を守ってくれる、直感や喜び、希望や良心といったものもまた、目に見えないものだ。目にも見えないし、音もしないし、においもしない。そして、それが、これから私がデザインしなければならないものなのだろう、ということは、なんとなくわかっている。でも、それは、私の内側の、いったいどこにあるのだろう。見えない脅威に包囲され、飛び道具も行動を極力制限される中で、自分の中の見えないものを、自由自在に活性化させる技を、私は持っているだろうか……。

物理的な行動を制限するということは、立ち止まる時間を持つということだ。この危機の到来は、自分の内外の見えないものに目を凝らし、耳を傾け、知覚して、その見えないものと共に、これからの時代をどう自分は生きていくのかを、よくよく考させるために、私の上に降ってきたチャンスなのだろうと思った。

それに、もしここで一度立ち止まって、きちんと目を凝らすことをしなければ、目に見えない大波小波が押し寄せるたびに、対処療法に右往左往し、何を何のためにデザインするのかもわからないまま、おろおろと人生を終えることになってしまいそうで、それこそが、自分にとって、一番望ましくない未来であるように思えた。

嵐は強くなったり、弱くなったり、いつ終わるのか、本当に終わるのか、まだわからない。でも、20か月近く、生身の人との接触を極限まで絶ち、住まいとアトリエの間の行動半径500メートルくらいの中に籠城して、見慣れたものだけに目を凝らしていると、自分の感覚が、面白いように研ぎ澄まされていくのがわかる。顕微鏡の解像度が、日に日に上がっていくような感覚。今さえずった鳥の声が、遠くのどの声と会話しているのかが聴こえてしまう感覚、一瞬の小さな環境の変化が、風に舞う木の葉が、スローモーションのコマ送りのように見える感覚。目の前にありながら、見えていなかったものに、ひとつ、またひとつ、と気づく感覚。立ち止まる時間が、こんなに豊かな時間だと知らずに、半世紀以上も生きていたとは、何と愚かなことであったか、とあらためて思う。

ひとりのじかんについて。希望のありかについて。地球という庭について。新しい暮らしの作法について。良心を再生させることについて。私が、この不思議な時間に知覚してきた、見えないものをめぐる気づき。今も進行中のさまざまな気づき。この気づきは、私よりもずっと若く、したがって、この先私よりもずっと長い時間、見えないものと生きていく誰かが、いつか、この先の嵐の中で立ちすくんだ時に、ちょっと役に立つかもしれない。気づきのおすそ分けのつもりで、この連載に書き記しておくことにします。End

――本連載は毎週火曜日と金曜日に更新します

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