営みのデザインを語る(前編) 人・もの・社会。
耕し、動かす、城谷耕生のデザイン

▲空き家となっていた元大工棟梁の自宅を改修したショップとカフェ「刈水(かりみず)庵」(左)。城谷の妻で陶芸家のオク・ウンヒが引き継ぎ、現店長の諸山夫妻は神奈川県からの移住組だ。城谷は2014年より元納屋を改修したスタジオ(右2階)で仕事をしていた。Photo by Yayoi Arimoto

城谷耕生は故郷である長崎県雲仙市小浜町を拠点に、ものづくりの思考を深め実践を繰り広げてきたデザイナーである。彼が「耕した」土地で変化が起こり始め、営みのデザインが目に見えるかたちになってきた矢先、城谷は2020年12月に突然逝ってしまった。ここでは回顧録としてではなく現在進行形のプロジェクトとして、ふたつのパートに分けて彼の仕事を考察する。彼が耕した土地から、すくすく、のびのびと多くの存在が育っているからだ。

▲2002年に小浜町に戻った城谷が仕事をスタートさせたスタジオからは、橘湾の海と夕日が一望できる。Photo by Yayoi Arimoto

エンツォ・マーリから城谷耕生へ、伝えられたもの

城谷耕生はカッコ付きの「デザイナー」である。その仕事が、ものに形を与えるデザインにとどまらなかったからだ。では、コミュニティデザインなのかというとそうも括れない。少し説明しにくい彼の仕事を語るために、一度根っこまで遡ってみたいと思う。

城谷は1991年にイタリア・ミラノへと渡り、現地の学校とデザインスタジオでの経験を経て95年にフリーランスとなった。自分の考えを日本語、イタリア語を問わずよく語る姿勢は、友人にもデザイン界の重鎮に対しても変わらない。その人柄と対話力はイタリアでも歓迎され、彼の仕事の質を裏付けるものとなったはずだ。

イタリアの「アップ&アップ」(大理石製品のブランド)、「アルボス」(紙製品のメーカー)、そして日本では「アウラ」のアートディレクターを任され、自身のプロジェクトと並行して、アキッレ・カスティリオーニ、アンジェロ・マンジャロッティ、セルジオ・アスティらへ、デザイン依頼や復刻のプロジェクトを行った。

そうした人物のなかに、城谷に大きな影響を与えることになるエンツォ・マーリがいた。マーリは1950年代から数多の名品を生み出したデザイン界の巨匠だ。しかし、優れたスタンダードを届ける「平等」というユートピアへの志向を失った消費社会とデザインについて、いつも挑発的な議論を投げかけていた。
 
城谷は当時、外部指導員を務めていた長崎窯業技術センターに提案し、マーリを長崎県波佐見町へ講師として招聘し、波佐見焼の職人とのワークショップを企画し実現へと運ぶ。巨匠が小浜へ、波佐見へやって来る。これはちょっとした事件だった。

2001年夏にマーリは南イタリアの陶器産地ヴィエトリで、若い絵付け職人らに向けて「新たなる伝統」と題したワークショップを行っており、そのメソッドを持って、同年9月に波佐見にやって来た。参加したのは、城谷の呼びかけに賛同した染付職人ら6名。

▲城谷の企画でマーリと波佐見焼の染付職人らと行ったワークショップの様子(2001~02年)。本ワークショップのメソッドは城谷にとって大切な指針となる。Photo by Katsuhisa Kida, FOTOTECA

3日間にわたるワークショップの内容は以下のようなものだ。1. 文化と歴史の根っこへと遡り、古典のクオリティを見極める。2. 伝統を単に継承するのではなく、現代に生きるモチーフを自身で考える。3. 筆のスピードとクオリティを獲得する(仕事にかける時間と質との関係について、マーリは、即興的な筆の運びでクオリティを生み出す書道家の講義を求めた)。4. 小さな共同体を形成して研究、製作を継続し、独自のルートによる販売方法を見つけることを目標に定める。

マーリのメソッドは参加者の意表を突いた。

それまで、伝統工芸の産地には幾度となく、助成金をもとに東京からデザイナーが送り込まれ、職人たちは彼らのスケッチを形にする「技術的な施工者」として働いた。ところがこの、世界的デザイナーは、つくるものの指示は一切せず、職人たちが研究すること、考えることを要求してきた。

マーリが産地を活性化してくれると期待した参加者はその後去っていき、最終的には3名の職人が残って自主的な学びを進め、製品化へとつなげた。このコレクションは「KAZAN(火山)」と名付けられている。

KAZANへと至るプロセスは、デザイナーと職人との協働の、従来とは「別の」あり方を模索していた城谷にとって、まったく新しい道筋を照らす体験となり、自信につながったに違いない。翌年、城谷はミラノから小浜町に拠点を移し、スタジオシロタニを設立。故郷での活動を開始した。メーカーとのプロジェクトと並行して、伝統工芸の産地と大学機関とを結んでのプロジェクトに意欲的に取り組み、そこに城谷ならではの思想が結晶していった。

▲ワークショップ当時のマーリのメモ。3名の職人が考えた現代的モチーフは、マーリと城谷によるフォルム上に描かれ「KAZAN」コレクションとして販売された。Photos by Yayoi Arimoto

伝統を問い直す。職人と学生の「小石原プロジェクト」

ところで、マーリのワークショップ、「新たなる伝統」のイタリア語inventare una tradizioneを直訳すれば「伝統の創出」となる。実は同様のタイトル「創られた伝統」というイギリスの研究書が存在し、城谷の書棚にはこの一冊が収まっている。

この本は、伝統は遠い昔から継承されてきたものと一般に考えられているが、多くは近代になって創り出されている、とその事例と意味を論考している。伝統工芸継承の新たなあり方とは何かを、城谷は「問い」にしていたに違いない。07年には、福岡県小石原焼の作陶家らと自主的な勉強会を始めた。グループ名を「COCCIO(コッチョ)」という。

作陶家らとの半年にわたる勉強会の後、九州大学大学院芸術工学研究院池田美奈子研究室の学生らも交え「小石原プロジェクト」が始動した。その成果は「轆轤(ろくろ)とノート」というブックレットにまとめられ、ひじょうに総合的な研究が行われた様子が伺われる。轆轤は「手の技術」、ノートは考える「脳の技術」の象徴だ。内容は小石原とそこに住む人々について、小石原焼の歴史と技法について、さらに食の歴史、食器の使い方と人々の振る舞いについて、陶磁器の流通の現状について。食器のデザインと製作についてはごくコンパクトにまとめられている。

▲小石原焼の作陶家らが自腹で城谷を招いて行われた勉強会に九州大学池田研究室の学生が加わり、「小石原プロジェクト」が実施された。小石原焼の新たな伝統を担うコレクション「COCCIO」(2007~10年)が誕生した。Photos by Ryoji Kudaka

デザインに関しては作陶家、熊谷裕介にこんな話を聞いた。「城谷さんは、とびかんなや刷毛目は使わない方針でした」と言うのだ。

「とびかんな」は小石原焼の伝統的な装飾と考えられているが、戦後に始まったものであることを研究によって城谷は知り、これからの伝統を創り出すためにあえてその技法を使わなかったのだと想像できる。

さらに「小石原のような半陶半農という働き方は貴重な財産だ」とも語ったという。土という資源は無限ではない、農業も営みながら適量を作陶し、生産した土地で適量を売る。それが持続可能な生き方だ。宮沢賢治の「農民芸術概論綱論」の一文を引用した。

「デザイナーという仕事が、(略)物作りの多様な関係を見直し再構築する総合的な仕事なのだということを理解してもらえるような出会いにしたい」と城谷は当時記している。

この言葉は、彼がマーリやカスティリオーニらから受け継いだ「プロジェッティスタ」の仕事がどういうものだったかを言い当てている。冒頭に城谷はカッコ付きの「デザイナー」と書いたのは、そんな理由からだ。

▲伝統を進化させるうえで城谷が参考にした本「創られた伝統」(紀伊国屋書店 1992年)のページ。Photo by Yayoi Arimoto

実現可能なユートピアを耕すということ

城谷は個人の仕事に閉じこもらず、仲間たちといかに生き生きと仕事に取り組むか、いかに人間らしく生きるかを、理屈ではなく、海と温泉、食の豊かさを楽しむことで伝えていった。そこには生活の原点を揺さぶる心地のいい力があった。見ている風景は似ていながら一方で、マーリは怒りを原動力に社会を覚醒させるという「役割」を生きた人だった。そこにふたりの違いがある。

かつて、九州大学の池田研究室で学び、スタジオシロタニで働きたいと希望したデザイナー、川浪寛朗は初めて小浜を訪ねたときの衝撃をこう語る。

「とにかく、耕生さんのように生活を享受しながらデザインの仕事ができるのだ、ということに驚きました。僕たちはその生き方に感染したんです」。

彼に続く学生も複数現れたのだから、確かにこれは「感染」かもしれない。池田准教授も「デザインについての考え方がまったく変わった」と語り、「研究室はスタジオシロタニへの人材供給源でした」と笑う。

小浜町は人口7,654名(21年)。海と山、そして源泉温度日本最高峰の温泉(つまりエネルギー)に恵まれた町だ。「感染」はまず小浜町の人口減少区だった刈水に根付き、今、さらに多様なかたちで広がっている。

耕生とはその名の通り生を耕す人。「ユートピア」とは「ここにはない場所」と言われるが、城谷の生き方に「感染」した若者たちは今、「実現可能なユートピア」をゆっくり確実に耕している。その様子については次頁に譲りたい。End

▲しろたに・こうせい/1968年長崎県雲仙市生まれ。91年渡伊、ミラノのデザイン事務所を経て95年にフリーランス。2002年に帰国し、雲仙市小浜町にスタジオシロタニ開設。自身のデザイン活動とともに九州の伝統工芸産地の職人たち、大学の学生らとの協働作業を精力的に行う。12年に始まった「エコヴィレッジ構想」を通じ、刈水地区の地域創生や、もの・人・地域をつなぐ独自のデザイン活動に力を注いだ。2020年12月急病により逝去。Photo by Yayoi Arimoto

ーー本記事はAXIS212号(2021年8月号)からの転載です。