日本企業にイタリアのカロッツェリア文化をもたらし、
人生を「デザイン」した 宮川秀之氏死去

ブリケッラ農園にて。宮川(中央)とスタッフたち。(出典 : Società Agricola Bulichella)

イタリアの自動車デザイン企業を日本メーカーと結びつけ、ジョルジェット・ジウジアーロの才能を発掘した日本人実業家・宮川秀之(みやかわ・ひでゆき)氏が死去した。88歳だった。イタリアでは11月30日からメディア各紙が伝えた。生前の本人による活躍とともに、奇跡ともいえるさまざまな出会いを、ここに振り返る。

ヤマグチ号二輪車と宮川秀之。(出典 : 日本自動車殿堂)

きっかけは世界一周計画

宮川秀之(以下敬称略)は1937年、群馬県前橋市で写真館を営む家に生まれた。少年時代から二輪車や四輪車に深い興味を抱いていた彼は、早稲田大学文学部在籍時に同郷の茜ヶ久保徹郎(現・ローマ日本語補習授業校校長)とバイクによる世界一周を計画。茜ヶ久保の父で社会党国会議員を務めていた重光のつてで、ヤマグチ製250ccバイク2台の提供を受けるのに成功する。

練習のため日本一周をしたのち1960年4月、宮川と茜ヶ久保は香港、インド等を経由して同年のオリンピック開催地であるローマに到着した。現地では毎日新聞社の五輪取材班をサポートするアルバイトをこなす。
閉幕後は日本の自動車雑誌のために欧州各地のモーターショーを取材した。その行程で宮川はトリノ・ショーも訪問。そこで未来の伴侶となるイタリア人女性マリーザ・バッサーノ(2003年没)と出会う。プリンス・スカイライン・スポーツが展示されたカロッツェリア・アレマーノのブースで着物姿のコンパニオンを務めていた彼女は日本語を能くするとともに、父はランチア社の役員であった。
後年宮川は、マリーザが深く信仰していたカトリックの洗礼教育を受けたのち彼女と結婚する。

ジウジアーロを発掘する

日本の四輪車メーカーと初の縁は、マリーザの留学先であった広島でもたらされた。東洋工業(現マツダ)とのコンタクトに成功した宮川は、トリノのカロッツェリア・ベルトーネと結びつける。その過程で出会ったのが同社でチーフデザイナーを務めていた若きジョルジェット・ジウジアーロだった。宮川は即座に彼の才能を見抜き、彼らの仕事は1966年マツダ・ルーチェとして実を結んだ。

後年ジウジアーロがカロッツェリア・ギアに移籍した際もいすゞとジウジアーロを結びつけ、1968年いすゞ117クーペを送り出した。しかしジウジアーロがギア社の社主アレハンドロ・デ・トマゾの先制的経営に不満を示したことから彼の独立を支援し、エンジニアのアルド・マントヴァーニとともにイタルデザインの前身であるイタルスタイリング(登記名SIRP)を1967年に設立した。彼らの目標は明確だった。従来のカロッツェリアがデザインの提供や富裕層向けの一品制作であったのに対し、量産計画まで一括で手掛けられるデザインファームを目指した。宮川は、さらに日本企業の顧客開拓を進めた。1969年三菱コルトギャランのコンペにこそ敗退したものの、同年のスズキ・キャリイはイタルデザインが手掛けた記念すべき初の量産車となった。いっぽうで、宮川は韓国の現代自動車との交渉もまとめ、最初の成果である1975年初代ポニーは、ヒョンデを国際的自動車企業に飛躍させるきっかけとなった。

1963年、ベルトーネ時代のジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたシボレー・コーヴェア・テステュードと。(出典 : 日本自動車殿堂)

1966年マツダ・ルーチェ。(出典: マツダ株式会社)

いすゞ藤沢工場で117クーペと。左から宮川秀之・マリーザ夫妻、ジウジアーロ。(出典 : 日本自動車殿堂)

1969年スズキ・キャリイ L40V型。(出典 : 日本自動車殿堂)

1974年ヒョンデ・ポニー・クーペ・コンセプト。(出典 : GFG Style)

いすゞアッソ・ディ・フィオーリ・コンセプト。(出典 : Italdesign)

宮川の精力的な営業活動により、イタルデザインは後発でありながらイタリアを代表する自動車開発支援企業に成長した。またプロジェクト初期段階のスケッチなど、ジウジアーロの仕事と称される以外にも多様な形で日本企業のデザイン力向上に貢献した。また、あまり知られていないが、宮川の仲介によってイタルデザインでの研修を受ける機会に恵まれた日本人プロダクトデザイナーたちがいたことも忘れてはならない。

数々の社会貢献も

イタルデザインを軌道に乗せたあとの宮川は、自らスズキのイタリア輸入元を立ち上げるとともに、F1ドライバー、ジャン・アレジなど著名アスリートたちのマネジメント事務所「コンパクト」も設立した。さらに1983年、生前の本人が筆者に語ったところによれば「これまでの全財産を投じて」中部トスカーナ州の農園を手に入れ、ワイン醸造と農園民宿経営に着手する。宮川と仲間たちが手掛けたワインは年数を重ねるとともに、コンクール受賞など高い評価を得るようになり、宮川本人は現地のDOC(イタリアにおける統制原産地呼称)ワイン組合の理事長にも選ばれた。

私生活ではマリーザとともに実子4人と養子3人を育て上げたほか、アフリカ人孤児4人の養父母も務めた。さらに日本の引きこもり問題にも関心を寄せ、NPO法人と連携してイタリアでホストファミリーを務めた。これらの活動はイタリアでも高い評価を得た。

晩年の宮川は2006年に外国との友好親善に貢献した人物にイタリア共和国から与えられる「連帯の星 大将校勲章」を受賞したのに続き、2017年には日本自動車殿堂の殿堂者に選ばれた。カロッツェリアが最も輝き、日本の自動車産業が飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた時代を駆け抜けたビジネスマンとして、筆者としては憧憬の念を抱かざるを得ない。しかしながら、伊日ともにビジネスは手探り状態で、交通・通信手段も今日とは比較にならないくらい時間を要した時代にビッグビジネスを数々まとめあげたばかりか、前述の社会貢献も実践した。今振り返れば、宮川は自らの人生を見事にデザインしていたのである。

ジウジアーロ(右)と。トリノの空港で2014年頃。(出典 : 日本自動車殿堂)

2017年、東京の学士会館で行われた日本自動車殿堂表彰式典で。(出典 : 日本自動車殿堂)