展覧会レポート
「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」

都市と写真表現をめぐる展覧会「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」が、東京・六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催中だ。写真評論家の伊藤俊治が展覧会のディレクターを務め、20世紀を代表する写真家ウィリアム・クラインと、国内外の気鋭の写真家11組が一堂に会す。また、会期中には出展作家によるワークショップやトークイベントも行われた。

当展覧会のディレクターである伊藤俊治は、1984年に写真評論集「写真都市 CITY OBSCURA」(冬樹社)を刊行している。当書で、「写真が都市を挑発し、都市が写真の機能を変えた」と述べるように、写真装置が都市を創造し、都市の感受性を写真が背負うさまを、ロバート・フランクやアウグスト・ザンダーといった写真家を通して見出した。

この、「写真都市」の刊行から30数年を経て、写真をとりまく環境は、デジタル化やインターネットの普及などによって大きく変化している。現代の作家たちが見せる多様な写真表現は、どのような都市像をつくり出しているのだろうか。

▲壁面に大きく掲げられているのはウィリアム・クラインの「Atom Bomb Sky, New York, 1995」。クラインが監督した映画作品「ミスター・フリーダム」(1968)のポスターなどが床面に並べられている。

本展は2部構成となっている。前半では、写真表現を中心にファッションや映画、デザインなどジャンルを越境して活躍するウィリアム・クラインのイメージ群が提示される。展覧会のステートメントには、クラインの写真は「作品ではない。“写真の概念”を示すものだ。だから常に新しい」と評した思想家の多木浩二の言葉が引かれる。写真の枠組みを越えた、クラインの旺盛な実験精神をうかがい知ることができる。

続く展示室には、映像作家のTAKCOMがクラインの写真を再構成した、音と映像のインスタレーションが広がっている。12面のスクリーンと床面へのプロジェクション、スライドプロジェクターによる映像と音に満たされた空間に、めくるめく都市のイメージが疾走する。

200点あまりの写真やタイポグラフィ、映画スティルなど、クラインが生み出した20世紀の都市のイメージが錯綜し、スペクタクルとして鑑賞者の前に現れる。その空間は、カメラ・オブスキュラ(暗い部屋)からパノラマ、ジオラマを経て写真機、そしてインターネットへと至る、21世紀の感性に挑発を仕掛けているようにも見える。

▲ニューヨーク、ローマ、モスクワ、東京、パリといった、クラインの写真が、TAKCOMによる編集やアニメーショングラフィックによって再構成・演出される。

後半の「22世紀を生きる写真家たち」と題された展示では、さまざまな写真表現で人間と都市を描き出す日本とアジアの写真家の作品を見ることができる。「22世紀」という言葉は、美術批評家の椹木野衣が、20世紀の終わりの時期に次世代の作家を紹介した「22世紀芸術家探訪」(エスクァイアマガジンジャパン、1999年)という書籍のタイトルから引かれているという。新しい世代の写真は、その展示方法もじつに多様だ。その一部を見てみよう。

▲インクジェット・プリントの表面を手作業でスクラッチしたり、焼け焦がせることで、写真の物質的な側面を前景化させる多和田有希の作品。触覚的な感覚を喚起させる。

▲写真家の石川直樹とサウンドデザイナーの森永泰弘による展示。写真に近づくと指向性のマイクによってサウンドスケープが聞こえる。視覚だけではなく聴覚を取り入れ、一般的な写真展とは異なる展示空間。

展示空間の中央には、西野壮平の「Diorama Map」シリーズが展示される。このシリーズは、東京、ニューヨーク、ベルリン、アムステルダム、リオデジャネロといった世界中の都市を、作家自身が歩いて撮影したスナップショットをコラージュした作品である。ひとつの都市につき、数千枚から数万枚におよぶ写真を切り貼りして地図のような一枚の平面をつくりあげる。「街の中を歩く」という個人的な記録と、俯瞰的な都市の構造という異なるスケールが、ひとつの平面上に居合わせ、都市の時間や空間が、一枚絵のなかに複層的に閉じ込められている。

▲西野壮平の「Diorama Map」シリーズ。コラージュによる巨大なプリントが垂直に展示されることの多いシリーズだが、本展では水平に展示され上から覗き込むように配置されている。高さの異なるグレーの展示台はビル群のようにも見える。

また、会期中は、西野によるワークショップも行われた。ワークショップでは、西野がこれまでに撮影したスナップショットのコンタクトシートを、参加者がそれぞれ切り貼りして架空の都市をつくった。世界中の都市を渉猟する西野にとって、写真を撮影し編集する行為と都市はどのような関係になるのか。ワークショップと展示を振り返りながら、話をうかがった。

「コンタクトシートには、撮影したときの一連のシークエンスが見られておもしろいんです。写真は一枚だけで見ても、どこの風景か分かりませんが、複数枚の連なりを見て、切り貼りする作業から、身体的な記憶を巻き戻していくことができます」。こうした西野自身の制作過程の一部をワークショップの参加者は体験した。

▲参加者に説明する西野壮平氏。(提供:西野壮平)

▲ワークショップで参加者に配られたコンタクトシート。コンタクトシートとは、写真原板(フィルム)を印画紙に密着して原寸で露光したプリントのこと。撮影した一連の順序を総覧できる。カッターやハサミで切り取って、ちいさな都市のパーツをつくる。(提供:西野壮平)

▲これまでに西野が撮影した21の都市のうち、3枚のコンタクトシートがランダムに参加者に配られた。かつて西野が撮影した都市の風景を、参加者は手の中で組み立てて架空の都市の風景をつくる。(提供:西野壮平)

▲それぞれの参加者がつくった架空の都市のパーツは、最後に壁に並べられた。(提供:西野壮平)

「ワークショップのあとに、『場所の微細なディテールを追体験するようだった』という感想をおっしゃる参加者の方もいました。写真のコラージュはパソコンのなかで簡単に行えることですが、手を動かして何万枚も切り貼りする作業は、都市の経験と記憶のラインを紡いでタペストリーを織るような、身体的な写真行為です」と西野は語る。

かつて撮影された「いまここ」ではない場所の記録を、コラージュという身体的な編集を通じて、「いまここ」に別様に現出させる。こうした身体的なふるまいと時間は、写真における古くて新しい感受性を喚起させている。

「今回の展示では、全体的に統一感が感じられず、当初は違和感を感じていました。でも、都市ってそういうものかなとも思うんです。街の中を歩いていると、自分の視点が揺さぶられて、どこかまとまりのない感覚になる。海は、一点だけを飽きずにずっと見ていられるんですが、街の中では視線の焦点が合わず、つねに変化させられてしまいます。そんな感覚をこの展示でも感じました」。

こうした「焦点の合わなさ」は、2020年に向けて大きく変貌する都市と、クラインが活写した1960年代の東京の様相と重なるかもしれない。伊藤俊治は1984年に「写真都市」の語に「City Obscura」というを訳をあてたが、本展では「New Planet Photo City」という言葉をあてている。暗い部屋から遊星へ。本展は、20世紀の哀愁を帯びながらそれを突破する、現代における写真都市の大きさを感じさせる。End

写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−

会期
2018年2月23日(金)- 6月10日(日)
時間
10:00 – 19:00(入場は18:30まで)
料金
一般1,100円、大学生800円、高校生 500円、中学生以下無料
会場
21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー1&2
詳細
http://www.2121designsight.jp/program/new_planet_photo_city/