川野泰周さん(禅僧・医師)が語る「今を生き抜くということ」
AXIS×川野泰周さん 坐禅ワークショップを7/21(土)開催

▲日本で禅宗の精神科医は川野さんただひとりである。白衣で用いる打腱器と聴診器、法衣で用いる鈴と柝は同時に使うことはないが、ふたつの肩書きとその知識は、論理的に説明し伝えることを手助けしている。

学び、思考し、そこに経験を積み重ねていく人の言葉には力がある。禅僧であり精神科医である川野泰周さんもそういう言葉を持つ人だ。ユニークなダブルワークの実践者でもある。仕事場である寺院やクリニックには、人間関係や社会に疲れ、身心のコンディションに不安を抱えている人が日々訪れている。ストレスフルな現代社会では、心の問題はますます大きくなっている。川野さんは、まず、脳を休めることの重要性を説く。「マインドフルネス」という状態をつくることで、さまざまなストレスと疲れのマネジメントができるというのだ。脳をクリアにするマインドフルネスとはどのようなものか。このキーワードから広がる世界について語っていただいた。

キャベツの千切りに集中する

「マインドフルネス」とは、瞑想によって到達する「気づきと受容の状態」を指し示す言葉である。パーリ語の「サティ(正念)」が語源だ。ブッダは悟りを得た後に、自己による価値判断を介さない、客観的な思念で物事を見つめる「正念」という概念を示した。これを近年、米マサチューセッツ大学のジョン・カバットジン博士が医学・心理学と結びつけて研究し、次いでグーグルの元エンジニアであるチャディー・メン・タンがビジネスパーソン向けのメソッドとして開発したことから注目され、世界的なトレンドとなった。アップルやインテル、IBM、マッキンゼーなどが研修プログラムとして採用したほか、ノバク・ジョコビッチらトップアスリートの実践者が多いことでも知られる。

川野泰周さんは日本でマインドフルネスを教え実践している先駆者のひとりだ。禅宗では坐禅修行として行うが、川野さんは日常での瞑想を提唱する。呼吸や食事、歩行などにおいて、その行為のみに集中できれば、それがすなわち瞑想である。

例えば、それはキャベツの千切りでもいい。その際、細かく、大きさを揃えて切ろうなどとは考えずに、ひたすらキャベツを切る包丁の感覚に意識を向けて包丁を動かす。そんな何気ない繰り返しの作業に集中することで、無になるような、感覚に没入していく境地に達するとマインドフルネスとなる。

脳を浪費するメカニズム

食事をしながらスマホから目が離せない人は少なくない。人間が処理できないほどの情報が常に飛び交っているためだが、ランダムな情報の処理に追われると心は病んでいき、人と人の関係性にも悪影響を及ぼす。例えば、母親が子育てしながらスマホを見ているようだと、子どもは自分に向き合ってくれない、愛されていないと潜在的に感じてしまうため、自己肯定感が育たなくなってしまうのだ。そうやって育つと反抗的になり、何かあるとすぐつぶれてしまう、「心幹」がない大人となる。

「目の前の行為に注意を注ぎ込む、心理学で言うところの注意資源を使い切ることが大切です。それは今という時間を大切に生き抜く行為そのものなのです」と川野さんは言う。現代人は、常に雑念とともにある。実は雑念はあって当然で、肝心なのは、それをわかったうえで放っておけるかどうか。情報処理などで脳が疲れてしまうと、この切り替えがうまくいかなくなる。

脳を浪費するメカニズムはすでに明らかになっている。切り替えられない状態は、待機電力として無駄なエネルギーを消費している状態に等しい。マインドフルネスにより切り替えがスムーズになると、脳の疲労は取れ、大脳辺縁系の海馬が増大する。不安やイライラといったネガティブな感情の中枢である扁桃体が縮小する。海馬の入り口が開き、記憶を取り出したり、ストックしたりすることが容易になる可能性もある。意識下で埋もれていた知識がふと浮かび上がる現象も出てくる。いわゆるアイデアである。

ダブルワークまでの道のり

▲林香寺は鎌倉の大本山建長寺の末寺で、創建は1420年と古い。瞑想やマインドフルネスは他の信仰を持つ人々へも広まりつつある。むしろ日本人のほうが宗教への先入観が強い。警策を手に川野さんは「ブッダの教えは生き方のコツと思ってほしい」と語った。

川野さんは臨済宗建長寺派林香寺の一人息子として生を受けた。19代目を継ぐ決意をしたのは、高校生のとき。先代である父親が他界したためだった。ある日、法事で訪れていた檀家の様子に目が留まった。穏やかな笑顔で故人との思い出を語る人がいる一方で、何年経ってもその悲しみが癒えぬ人もいた。日常的な法事の風景から、弔いの気持ちが人によって異なることに気づかされた。人の心のありようを理解できないと、僧侶としての資格がないと感じた。まずは、心の問題を学びたいと医学部に進学。精神科医になることを決意する。

慶應義塾大学の医学部に6年通い、臨床医として医療機関に6年勤務した後、30歳で禅僧としての修行を始めた。それまで積み上げた医者としての肩書きなど通用しない、ひとりの修行僧としてのゼロからのスタートだった。道場に籠もっての修行期間は3年半に及んだ。達磨大師の坐禅の様子から「石の上にも三年」という故事成語が生まれたが、その3年である。人間を根底から変えるのに必要な年月とされている。

朝は3時に起き、お経をあげ、禅問答をする。その内容は門外不出で、腹落した納得した答えが出せるかを試される。その後、粥を食べる。食事も修行のひとつで、音を立てずに素早く食べることが求められる。それから掃除をし、托鉢に向かう。臨済宗の托鉢は、2〜3時間、首から布袋を提げ経文を唱えながら近隣の軒から軒へと走り回って施しを受けるという厳しいものである。これらは午前の修行で、午後には草むしりや畑仕事が待っている。夜は9時に就寝するが、自主的な坐禅が奨励され、床につくのは11時か12時頃。睡眠時間は3〜4時間である。延々と続く修行のすべてに気持ちを込めなければならず、肉体も精神も追い詰められていく。

箸の持ち方や掃除の仕方、正座で手をつかずに立ち上がる所作などから、畑仕事のための草刈り機の使い方まで、何から何まで、できないことばかりだった。「本当に惨めな思いをしました」と振り返る川野さん。まさに人の限界が試された日々でもあった。しかし、やらなければならないことがあまりに多く、落ち込む時間はなかった。陰性感情に向き合う余地を与えない、心がどう動くかを見極めたプログラムなのである。

川野さんが修行を終え、山を降りたとき、34歳になっていた。すぐに精神科の仕事をしながら住職として働くダブルワークを開始。このとき、自分のなかで1本の線が通ったのを感じた。禅の道も、精神科医として心を健やかにする治療も、同じことであると気づいたのである。それを説明するのが、マインドフルネスという言葉だった。無我夢中で、目の前のことと向き合った修行時代は、マインドフルネスそのものだった。これを伝えることが、仕事のビジョンとなった。

自分の体感は自分だけのもの

マインドフルネスは、ひたすら生産性の向上を目指してきた近代以降へのアンチテーゼと言えるかもしれない。古来より様式美を重んじた日本の美的観点は、非生産的なものに注がれてきた。「本来、ものを素晴らしいととらえる目は、生産性を突き詰めたところに注がれてきたのではありません。むしろ、マインドフルネスと親和性がある」。瞑想として行うキャベツの千切りも、千切りとしての生産性は問わず、その行動自体が癒やしとなり、人の心を整える。

実態がないものを仏教では妄想と言う。「たら・れば」で過去を補正しようとしたり、他者からの評価を気にしてしまうのも妄想である。妄想に囚われると人は病んでいく。「実際に起きている事実は、目の前にある。自分の体感は自分だけのもの。それを享受することが大事なのです」。当たり前の行為のありがたさを享受する知足の精神は、禅の本質である。

▲雲水衣を纏い正座する。立ち上がるときは手をついてはならず、一足立ちとなり、スクワットのような負荷がかかる。慣れないうちは足先を傷めることもある。禅僧の所作の美しさは、積み重ねた厳しい訓練の賜。

マインドフルネスは、何かを感じる力を高める。自分と向き合い肯定し、自分を研ぎ澄ましていく行為であり、尊厳をもって生きることにつながる。 「無我夢中でがんばっている人の姿は美しい。そういうものを人間は本来持っていながら、自分はやろうとせず、ただ羨望の眼差しで見てしまいます。でも、この瞬間から、誰でもできるのです」。

ブッダの教えは健やかに生きるための知恵であり、根底には人を思いやり、共存していくという哲学がある。人と人は支え合っていくもの。マインドフルネスを通じて、その心を伝えたいと川野さんは願う。「人の幸せを自分の幸せのように喜べることが、人間が幸せな心でいる秘訣なのです」。マインドフルネスは人を変え、組織を変え、伝播する。こうして世界を幸せにすることが、彼の目線の先にある。End(文/石黒知子 写真/筒井義昭)
※この記事はAXIS194号に掲載されたものを転載しています。

川野泰周さんと実践する、坐禅ワークショップのご案内

林香寺で夏の夕暮れを感じながら「集中する」心地よさを体験しませんか?

日時
2018年7月21日(土)17:30~20:30
会場
林香寺(京浜線の屏風浦駅から徒歩3分)
〒235-0023 神奈川県横浜市磯子区森2丁目20−26
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定員
25名
※デザイナー・クリエイターを生業にされている方を幅広く対象にしています。
服装
普段着で構いません。
実践内容
マインドフルネスに関するレクチャー(60分)
坐禅の実践(60分)
秘伝の建長(けんちん)汁をマインドフルに味わう実践
&川野さんと参加者によるシェアリングタイム(60分)
参加費
3,000円(レクチャー受講・坐禅・けんちん汁込み)
※Peatixにて事前決済、キャンセル不可。(譲渡の場合にはこちらをご参照ください)
お問い合わせ先
axismag@axisinc.co.jp または 03-5572-0800 (AXIS編集部)まで。
協力
株式会社WASARA