日本初の家具モデラー、ミネルバの宮本茂紀の仕事を体感する(後編)

▲実際の家具を使って構造の解説が行われた。写真は、アフラ&トビア・スカルパの「SORIANA」。

前回に続き、家具モデラーの宮本茂紀の北海道・帯広にあるアトリエで行われた、建築家とデザイナーとつくり手がともに「身体と家具と空間の関係と可能性」について考える勉強会「家具塾」特別編の後編レポートをお届けする。家具塾第2部では、60年代から70年代に登場した椅子(主にソファ)をもとに、宮本が構造を解説しながら思いや考えを語った。会場の参加者からはさまざまな質問が投げかけられ、ディスカッションが繰り広げられた。

▲アトリエに保管されている試作や製品。写真提供/家具塾

家具モデラー、宮本の仕事

ここで宮本の仕事を改めて紹介しよう。モデラーの仕事は、デザイナーのアイデアを2次元のスケッチや図面から3次元の試作に落とし込み、細部を調整しながら製品化へと導く。そのために経験や知識はもとより、創造力も必要とされる。宮本は日本初の家具モデラーとして椅子やソファを中心に、企業やメーカーの製品や試作開発、建築空間のための特注家具の製作、ライセンス生産、文化財の修復など、国内外の多彩な分野で活躍している。

1953年に15歳で徒弟に入り、日本の洋家具デザインの草創期から携わって、独自に経験を積んで腕を磨いてきた。50年代はさまざまな家具の製作所で、ワラや馬の毛、スプリング(ばね)を使用した古典的な西洋の椅子づくりを学んだ。転機を迎えたのは、60年代のことだった。

▲ヴィコ・マジストレッティの「マラルンガ」。背もたれの曲がる構造を見る。左は、家具デザイナーで、塾長の藤江和子。

60年代は、イノベーター、アスコ、アルフレックス、エアボーン、オーバーマン、カッシーナ、B&Bなど、石油化学製品を用いた海外の家具(椅子やソファ)が国内にいっせいに流入した時期だ。

それまで椅子をつくるには5年以上の修行が必要だったが、石油化学製品からつくられた椅子は、簡単に言えば、素材を機械でカットして生地をかぶせれば完成するため、昔ながらの家具職人は自分たちのやる仕事ではないと思っていた。だが、宮本は当時から、「自分ができることは何でもする」と積極的に取り組んだ。輸入された椅子はそのまま日本市場で販売されるものもあれば、日本人の体型に合わせて規格変更したり、輸送コストを抑えるために分解された部材として届くものもあり、その組み立て作業を行ったりした。

▲イタリアのカッシーナでの宮本の研修時の写真。左は、今回のファシリテーターを務めた、家具デザイナーの藤森泰司。

職人の未来を脅かした機械生産の椅子

70年代に宮本は欧州にわたって、家具のトップメーカーで世界的な技術を習得。その後も輸入家具を扱うさまざまなメーカーから仕事が舞い込み、自社工場を増やして生産にあたった。

「家具塾」特別編の第2部で取り上げられたのは、その時代に宮本が国内試作・製作に携わったものや自身が気に入って購入した椅子(主にソファ)についてだ。ひとつは最初に衝撃を受けたという、1969年に発売されたガエタノ・ペッシェの「UP」シリーズ。それまでの古典的な西洋の椅子は、座面や背もたれに天然素材を何層も重ねてスプリングと組み合わせ快適な座り心地を追求していたが、これはすべて機械でつくられる。「ペッシェの提案は、ひじょうに強烈でした。われわれ職人は自分たちの手の届かない世界を痛感し、将来に迷いを感じたのがこの椅子でした」と宮本は語った。

▲アルフレックスの「MODEL 7」。左は、建築家で、家具塾サポーターの田井幹夫。

60年代から70年代にかけて、ペッシェの「UP」のようなウレタンの塊のような家具が多数登場したが、それらとは構造が異なるのがアルフレックスの「MODEL 7」だった。

宮本が初めて見たのは、1970年。今までに経験したことのない柔らかな感触で、背もたれが後ろにしなやかに曲がった。「それまでの家具は背もたれが曲がるという概念がなかったので、驚きました」と話す。会場では、宮本がカバーを取り、素材や構造を見せてくれた。背の途中までスチールパイプが伸び、上部は塩ビパイプ、クッション材には硬度の異なるモールド発泡フォームで構成されている。「気になった家具は解体してみる」というのが宮本の仕事のやり方で、参加者にとっては普段あまり見ることのない内部構造を知る貴重な機会となった。

▲マリオ・ベリーニの「Amanta」。土台にクッションを載せているだけなので、取り外しが容易にできる。

デザイナーの思いをすくい上げて実現に導く

マリオ・ベリーニが1977年にデザインした「CAB」は、日本では80年代に入ってから販売が開始された。国内生産にあたり、宮本はイタリアから送られてきた部材を組み立てた。牛革をスチールフレームにかぶせてファスナーで綴じるのだが、タンニンなめしの革は硬いのでかなり力のいる作業である。それには以前、ミラノの馬具屋で修行を積んだ経験が生きたという。

その後、デザインは遊牧民のテントから着想を得たものだと聞き、本当は布製でつくりたかったのではないかと考え、キャンバス地を使って独自に試作してみたことがあった。それをベリーニが見て、いたく気に入ったそうだが、革でつくるより製造工程に手間がかかりコストに跳ね返るため、製品化するには難しいと判断された。実現には至らなかったが、宮本にとってはベリーニの本来の思いをすくい上げることができたのではないかと感じ、記憶に残る一脚になったという。

▲ハンス・ウェグナーの「ジ・オックスチェア」。写真提供/家具塾

アトリエの宮本の部屋に置かれている、自身で購入したというハンス・ウェグナーの「ジ・オックスチェア」も紹介された。この椅子に座っていると、「職人たちのものづくりの想いが伝わってくる」と言う。「北欧メーカーの家具、特にウエグナーのデザインした家具には、職人の伝統的な手作業の技術や丁寧な仕事が随所に生きている。それを育み後世に継承するためにも、こうした家具をつくり続けることが大事だと思いますね」。

つくられた60年代半ば当時は、天然ゴムと合成樹脂を混ぜたフォームラバーが採用されたが、60年代末以降のウレタンフォームの発展とともに素材が変更された。会場では、背もたれの尖った部分の内部に収められている、職人の名前や住所が書かれた板を取り出し見せてくれた。自分の手がけたものに名入れすることに対し、「ものをつくる人の意気込みや誇りを感じる」と宮本は語った。

▲オリヴィエ・ムルグの椅子にヒントを得て開発した、宮本がデザインした「ミヤモトチェア」。

つくり手が少ない日本のものづくりの現場

宮本が海外にわたって経験した製作現場では、デザイナーとモデラーが互いに刺激し合い、発展的な関係性にあり、そういうなかからいいものが生まれていることを知ったという。だが、日本ではそもそも家具のつくり手、家具モデラー、そして家具デザイナーの数が少ないのが現状である。

家具塾でも、その問題に危機感を抱き、ものづくりにおいて建築家とデザイナーとつくり手の3者が協力し合う重要性を唱えている。今回のように宮本の仕事や家具づくりについても体験を通じて勉強する場をつくり、議論を重ねる機会もたびたび設けている。宮本は2019年で82歳を迎える現在も、文化財の修復や観光用馬車といった多様なプロジェクトを抱え、デザイナーとの試作開発にも意欲的だ。本記事でも家具モデラーという仕事を多くの人に広く知ってもらう機会になればと考えており、興味をもたれた方は、さらに著書を読むことをお勧めしたい。End

宮本茂紀(みやもと・しげき)/家具モデラー。1937年東京生まれ。芝家具の流れを汲む椅子張り職人として修行を積む。1966年五反田製作所を創業。1983年五反田製作所の分社としてミネルバ設立。イタリア、スウェーデン、スペイン、ドイツの工場で研修を受け、世界的な技術を修得。国内外トップブランド家具のライセンス生産をはじめ、試作開発、迎賓館や白洲次郎の椅子など歴史的価値のある椅子の修復、宮内庁の儀装馬車の修復や家具の製造のほか、日本初のモデラーとして時代を代表するデザイナーの椅子の製作を手がける。2007年黄綬褒賞受賞。編著書に、「原色インテリア木材ブック」(建築資料研究社、1996)、「世界でいちばん優しい椅子」(光文社、2003)、「椅子づくり百年物語」(OM出版、2005)がある。

家具塾/建築家とデザイナーとつくり手がともに「身体と家具と空間の関係と可能性」について考えるデザインの勉強会。2014年春に始動。座学ではなく、実際に家具に触れながら、あるいは空間に身を置きながら、身体と家具と空間の関係と可能性を問い直すこと、また参加者も気軽に発言できる活発な議論を重要視している。塾長は家具デザイナーの藤江和子、スーパーバイザーは家具モデラーの宮本茂紀が務める。サポーターには、テキスタイルデザイナー・コーディネーターの安東陽子、編集者・デザインコミュニケーターの飯田 彩、建築家の田井幹夫、藤江和子アトリエの家具デザイナーである野崎みどり、家具デザイナーの藤森泰司がいる。参加者は、家具メーカーや製造会社などのつくり手や売り手、建築家やデザイナー、編集者など、デザイン活動に携わる人々。2018年6月には、日本建築士会が主宰する、未来につながる社会貢献の活動や業績を担った建築士あるいはグループを顕彰する「これからの建築士賞」を受賞。受賞理由に「人々が安心できる場を生み出し、人と空間をつなぐ家具の重要性やものづくりの根本を探り、家具を構成する素材について深く追究していること」などが挙げられた。