第8回 建築家 小室 舞

見えない部分との対話

文・詩/大崎清夏 写真/金川晋吾

詩人・大崎清夏が建築家の手がけた空間をその案内で訪ね、建築家との対話を通して空間に込められた想いを聞き取り、一篇の詩とエッセイを紡ぐシリーズ。

第8回はKOMPAS主宰の小室 舞さんとともに住宅「SETAGAYA HOUSE RENOVATION」(東京・世田谷)を訪ねます。大崎さんの心に浮かぶ、この空間に投影された記憶とは?

小室 舞(こむろ・まい)

1983年大阪生まれ神戸育ち。2005年京都大学工学部建築学科卒業。08年東京大学工学研究科建築学専攻修了。06-07年 スイス連邦工科大学チューリヒ校留学。08-17年Herzog & de Meuron Basel勤務(14年よりAssociate)、M+美術館(香港)担当者として14年より香港事務所勤務。17年香港と東京にKOMPAS設立。香港を主拠点に多国籍なチームで日本や海外での建築・空間設計を行っている。

それは、ちょっと衝撃的な心地良さでした。室温や湿度が適度に保たれていることや、天窓から入ってくる自然光や植物の緑が、どんなに直接的に身体感覚にはたらきかけてくるか――そこに足を踏み入れた途端、頭よりも先に肌が、ずっとここに居座りたいと主張している声が聞こえるような――その説得力には有無を言わせないものがありました。

特別なことは、何もしていないように見えます。大きな美術館の設計なども手がけてきた小室 舞(KOMPAS)さんの設計による個人邸のリノベーションは、私の事前の想像に比べて、語弊を恐れずに言えばとても「普通」のリビングダイニングでした。

自身の設計の方針について「“インスタ映え系”じゃない、実際に行ってみて初めて感じられる何かのある空間にしたいんです」と話す小室さんの、「建築家の個性よりも、プロジェクトごとの特異性を大切に」と計画された空間には、さまざまな素材が各々の根拠に則って選ばれ、廉価に済ませるべきところもきちんと取捨選択されて、配されていました。

ポルトガルから取り寄せられた炭化コルクは、壁紙で覆われることなく、そのまま断熱と脱臭を兼ね備えた内壁として嵌まっています。カーテンと型板ガラスの仕切りは、リビングダイニングの一角を勉強部屋として使う中学生の女の子がいつでもプライバシーの度合いを調整できるよう、スタンバイしています。エアコンや分電盤を隠す波板も、床暖房を敷いた石床も、通常は外装として使うような素材も含めて、手間を惜しまずに工務店とやりとりした末に集まってきた内装のためのそれらの資材は、その道のりの苦労を主張することはなく、あくまでも静かに控えめに、収まるべきところに収まっていました。

東京という大都市の一角に家を持ち、そこに長く暮らしてゆくことは、やはりひとつの特権です。一方でその暮らしには、めまぐるしい都会の変化のなかで、状況に応じて、疲弊してしまうことなくたのしく自分を保ってゆくための知恵が必要なのだと思います。だからこそ私たちは、ずっと持ち続けてきたものを手放したり、壊して作り直したり、別の形に整えたりするのでしょう。

すでに一度いつかの時点で完成し、ずっとその場所に存在してきた家をつくりかえることは、それまでの暮らしの痕跡との折衝の積み重ねです。限られた可能性のなかで、空間の質を大幅に変化させながらも各部分の折り合いをつけてゆくために、小室さんは「見えない部分」の設計から進めていきました。天井の梁をどう覆うのか、どの窓をなくし、どの窓を残すのか。窓を覆う壁の高さひとつ、吹き抜けの位置ひとつ、天窓の角度ひとつ……。

すべての取捨選択がなされた後にそこを訪れた私たちには、なくなったものや覆われたものを見ることはできません。私たちはただ、その空間の心地よさに身を委ねるだけです。リビングの角からは、見晴らしのいいバルコニーに出ることができ、そこがかつて浴室だったとは、そう教わらなければきっと想像すらできなかったでしょう。

想像もできないようなことをひとつひとつ想像し、形にしてゆくことが、家をつくりかえるという作業なのかもしれません。「見える部分」のために選ばれた素材は「見えない部分」の記憶を宿して、なお奥ゆかしく暮らしの背景に退こうとしているかのようです。

上の階から大ぶりのグリーンが葉を伸ばし下ろしている吹き抜けは、広い空間の内部に正方形の天窓から落ちる自然光をそっと宿して、明暗のリズムを生みだすだけではなく、夏の涼しさと冬の暖かさを保つ空気の流れをつくっています。

チャコールグレーの床、炭化コルクの茶色、窓上の波板のライトグレー、天井の白、天窓の光。上へ向かってだんだん明るくなってゆく素材のうみだす自然なグラデーションも、空間にもうひとつ別のリズムを与えています。

細部の素材の調和がホテルのロビーや洗練されたバーを思いださせるような上品な佇まいは、時が経つにつれて味わいが深まるのを待っています。

空間の中で目を引いたのは、囲んだときに自然と互いの顔が見える緩やかなカーブのあるアイランドキッチンでした。ホームパーティーのとき、家主が料理をつくり続けるキッチンに自然と人が集まってしまうのはよくある話で、アイランドキッチンはこれからもっとホームパーティーを楽しみたいと考えている家主のためのものでした。

床暖房の心地よさに、小型犬のマリーさんがはしゃぎまわっています。吹き抜けの天窓から射しこむ光が、わずかずつ移ろってゆきます。植物の葉はやさしい湿度にくつろいでいます。もうすぐ、この家に住む家族がひとり、またひとり、帰ってきます。


Photos by Shingo Kanagawa

大崎清夏(おおさき・さやか)

1982年神奈川県生まれ。詩人。詩集「指差すことができない」が第19回中原中也賞受賞。近著に詩集「新しい住みか」(青土社)、絵本「うみの いいもの たからもの」(山口マオ・絵/福音館書店)など。ダンサーや音楽家、美術家やバーのママなど、他ジャンルのアーティストとの協働作品を多く手がける。19年、第50回ロッテルダム国際詩祭に招聘。https://osakisayaka.com/