建築家 伊東豊雄×デザイナー 原田祐馬
万博後の未来を展望する

1970年大阪万博のシンボル「エキスポタワー」の設計に菊竹清訓建築設計事務所の所員として携わった建築家の伊東豊雄。デザイナーの原田祐馬は、幼少期からそのエキスポタワーを見て育ったという。今回の大阪・関西万博にも関わるふたりが自ら手がけた建築やデザインについて、公共性について、万博後について語った。

70年大阪万博との関わり

原田 僕は1970年開催の大阪万博跡地にできた、万博記念公園に隣接する千里ニュータウンで育ちました。1979年生まれなので、70年の大阪万博は見ていないのですが、その公園に残る岡本太郎さんの「太陽の塔」と菊竹清訓さんの「エキスポタワー」は小さい頃から街の風景の一部としてありました。大学では建築を学び、エキスポタワー近くのインターメディウム研究所で編集やデザイン、現代美術、哲学などを勉強。そのときに70年万博の資料をデジタルアーカイブ化するアルバイトをしたり、その後、万博跡地の変遷の歴史を調べLIXIL出版発行の『10+1』に文章を書いたり、改めて自分と大阪万博とのつながりが深いことを感じています。 

先日、祖父が撮影したエキスポタワーの写真が出てきたので、持って来ました。伊東さんは菊竹清訓建築設計事務所に在籍されていたときに、この設計に携わられたそうですね。

伊東 僕はエキスポタワー設計の初期の頃から担当して、タワーの模型にカプセル(未来の住居モデル)をハンダゴテで付けたりしていました。最初の頃の模型にはカプセルがたくさん付いていたのですが、建設費が高騰して、カプセルの数がどんどん減っていきました。その作業と並行して、丹下健三さんの「お祭り広場」の模型製作や図面に起こす作業を手伝いました。お祭り広場は、菊竹さんや槇 文彦さん、黒川紀章さんらが基本設計チームとして毎週会議を開き、そこに各事務所から若手がかり出されていたのです。やがて模型や図面がすべて完成したのを見て、僕は「ああ、こんなものか」とがっかりしました。60年代のメタボリストたちによってさまざまな未来都市が提案されましたが、その結実した姿を見て落胆したのです。69年に菊竹さんの事務所を辞めて、万博が開幕してからは一度も訪れませんでした。