谷崎潤一郎へのオマージュ
国立新美術館にて開催中の「陰影礼讃 展」

アレクサンドル・ロトチェンコ「階段」(1929年/プリント1994年)

照明の仕事をしていて、切り離せないのが「影」。いつも意識、無意識に関わらず、ついてまわってくる影について、改めて考え向きあう機会となったのが、国立新美術館で開催中の「陰影礼讃」展。国内5つの国立美術館のコレクションから、絵画、写真、オブジェなど、いずれも「陰影」が特徴的に描かれている作品が集まりました。

印象的な作品を挙げると、この展覧会のメインビジュアルにもなっているアレクサンドル・ロトチェンコの「階段」(1929年/プリント1994年)。以前、ブルーモーメントのコラムでも書いた「自然光と気配」は季節ごとにも変わるのですが、この写真の階段の段差の蹴上げの影とそこを通る人の影とのコントラストが印象的。季節は初夏近くなのか、秋の始まりなのかと想像しながら見ていくのも興味深いところです。

宮本隆司の「根岸競馬場」(1987年)

宮本隆司の「根岸競馬場」(1987年)は、 人の気配のない空間や環境を撮影した作品。差し込む光を建物と空間の造形物の輪郭を通して見ていると闇と暗がりの部分が引き立ち、その空間そのものが浮き立ちます。暗さ、まさしく影が主役の作品だと思いました。

ここでは、写真を掲載できませんが、トーマス・デマンドの「木漏れ日」(2002年)が展示されている場所の近くの天井にはガラスブロックによる採光の場があり、作品に天井からの自然光が降り注いでいるようにも見え、「ゆらぎ」を感じる写真作品です。風と自然光と木々の葉の動き、空気が伝わってきます。光を受けた葉のアウトラインを影で型どり、光の強弱を調光の機能のように風の動きによって加減しているようにも見えます。

マルセル・デュシャンの「折れた腕の前に」(1915年)と「自転車の車輪」(1913年)は、光とその陰影が如実にわかる作品。実際のモノ自体の存在が伝わるのと同時に、どんな立体でも、それが古くても新しくても、どんなに複雑な構造のものでも、影はそれぞれの特徴を消し均一化してしまうものだと感じました。

高松次郎「影」(1977年)

高松次郎「影」(1977年)は、まさしく影そのものを曲面に描いた作品。展示作品の中にはもちろん絵画がいくつもあるのですが、個人的に写真に興味があるのと実際のものをいちばん近く感じとりやすいので、どうしても写真作品に気持ちがいってしまいます。しかし、これには驚きました。影自体を描いているので、写真をも超えるリアル感があるのです。この作品に至るまでにいくつもが習作もあり、そうとう影を緻密に捉えているのだと思いました。これは会場で実際に体感してほしいと思います。私自身、影に対する感覚、考え、記憶がいったんリセットされたような気持ちになりました。

各作品が制作された時代や環境によって、今とは異なる捉え方の陰影が表現されていると思いますが、将来このようなかたちで「陰影礼讃」をテーマとして、集められ、表現され、残されるアートやデザインはいったいどんなものになるのだろうと考えてしまいます。自然光を通したものはもちろんあり、人工光ではもっと影の輪郭が鋭角に出てくるような光源、輝度の高いLEDなどで照らされたオブジェや写真になるのでしょうか……。それは今私たちが生活している環境を通して見えてくるのかもしれません。

幾度か読み返している谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」。その最後の一節に「……壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾をそぎとってみたい。それも軒並みとはいわない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まぁどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ」とあります。「或る程度の薄暗さ」がモノを引き立たせるともあります。なぜか何度読んでも褪せない一節だなぁと思っています。煌々と明るいことがすべてではないという考えや捉え方、それは時代を越えて光と影への普遍的な部分なのかもしれません。(文/マックスレイ 谷田宏江)

「陰影礼讃」
国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)
会期2010年9月8日(水)~10月18日(月)
毎週火曜日休館
開館時間 10:00~18:00 金曜日は20:00まで。入場は閉館の30分前まで。
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この連載コラム「tomosu」では、照明メーカー、マックスレイのデザイン・企画部門の皆さんに、光や灯りを通して、さまざまな話題を提供いただきます。