安積朋子(デザイナー)書評:
川本三郎 編『日本の名随筆・別巻32「散歩」』

『日本の名随筆・別巻32「散歩」』
川本三郎 編(作品社 1,890円)

評者 安積朋子(デザイナー)

「すべてを忘れて歩く」

冬の日暮れはあっという間にやってくる。ふと気付くと外は薄暗く、あ、明るい室内が丸見えだ、と思いブラインドを下ろす。この時間帯に街を歩くと、家々の窓から暖かな光がこぼれ出る様子を眺めることができる。そんな散歩が好きだ。バスに乗って住宅街を走るのも良い。街路樹が茂る夏には見ることのできないインテリアが目の前を通り過ぎるさまを、飽きることなく眺める。ゆっくり歩くとディテールも観察できる。あの照明器具、暖かな光がとても良い。防犯用の鉄格子なのに、奥で明かりが灯るとこんなに美しい。窓辺で揺れているのはネコのしっぽだろうか?子供の声に応えているように見える。この家の夕飯はカレーのようだ……。

『日本の名随筆』シリーズは旅の供として、題を選んでよく携える。この「散歩」を見つけたときは嬉しかった。永井荷風をはじめ中原中也、谷川俊太郎、稲垣足穂、赤瀬川原平、武田 花、緑 魔子、泉 麻人といった幅広い著者によって36篇のエッセイが綴られている。読み進むと、「散歩」という1つのテーマで、これほどさまざまな考察がなされて時代性が浮かび上がる、その多彩さにわくわくした。共通するのは人の生活、生きる営みに対する尽きない興味である。人が暮らし、住まいがあるからこそ散歩は楽しいのだ。遠景を見渡すときでさえ、観察者は人のつくったものを目ざとく見分けて点景として楽しむ。

切り取られた風景として遠景と近景がドラマチックに錯綜するのは、写真家の文章だった。すれ違う人々、著者と似た徘徊者への温かな視線。かつての銀座で文士が必ずステッキを持ち歩いた、という情景を回顧しているのは出版関係者と小説家だ。ある女優は迷宮のような路地を人間の体内に喩えている。詩人の眼差しは、目の前の風景に自分の思いを映し出す。幾棟も連なるアパートの窓のひとつひとつに、つましく暮らす若い夫婦を見る谷川俊太郎は、やがて彼らと自分を重ね合わせる。「……私は今はただ、自分がその男たちの一人であり、私もまた誰とでも同じように、餓え、疲れ、渇き、しかもなお希望のようなものをもっているのを知る」。

表現者は散歩から何かの着想を得るのだろうか、と読む側はやはり期待する。どのように、そのきっかけを手にするのだろう?しかし、その答えをそのまま文中に見つけようとするのは野暮かもしれない。そもそも何かを得ようとして散歩に出るのではないのだから。それでも、その瞬きを想像させるに足る断片もある。歌人、上田三四二の言葉は印象に残った。「すべてを忘れて歩く。仕事のことも、家のことも、その他一切のことから解放されて、大気に融け、眼に入るものをよろこびをもって受け入れながら無心に歩く。歌をつくろうとは思わない。歩くだけでいい」「だがそういう道の上で、ふと、歌が落ちてくる。むさぼらないが、落ちてくるものはありがたくいただく」。

少し肩透かしをくらったような気分になりながら、「ありがたく、いただくのか」と妙に腑に落ちる。そういうしたたかな謙虚さは、たしかに散歩にはぴったりだ。

「散歩」は近代の都の成立と平行して「発見」された、とあとがきで川本三郎が述べている。パリの街でボードレールによって定義された「Flneur-都市を徘徊する人」はのちにベンヤミンが実践し、実現はしなかったけれどもたくさんの提案がその散策から生まれた。今 和次郎と考現学も現代に多くの示唆を残している。そんな歴史を振り返ると、私たち現代のデザイナーが街を歩き人々の暮らしに思いを馳せるのもあながち的外れな行いではない、という気がしてくる。

身体のなかにリアルな生活の断片をたくさん記憶として持っていると、いつか何かの役に立つのではないか。「散歩に行くね」と言い残してスタジオを出る私を穏やかに見送るアシスタントたちは、そのへんを見越しているのかもしれない……などと思い巡らせながら、また歩く。(AXIS 120号 2006年3・4月より)

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