第1回 BMW デザイン部門 エクステリア・クリエイティブディレクター 永島譲二氏インタビュー

BMWのデザイン部門に籍を置いて四半世紀。その間、4代目の5シリーズ(1996年)やZ3ロードスター(96年)、5代目の3シリーズ(2005年)など同社を代表する車種のエクステリアデザインを手がけてきた。海外の一線で活躍する数少ない日本人カーデザイナーでもある。先頃日本市場に導入された3シリーズ GT(グランツーリスモ)の発表を機に来日した永島氏に話を聞いた。インタビューの内容を3回に分けて紹介する。

写真(ポートレート)/藤井 真

インタビュー・文/編集部・上條昌宏


30年を超える欧州でのデザインキャリア

——帰国はいつ以来ですか?

 基本は年に1度、クリスマスから正月にかけて帰国します。そういう意味で約半年ぶりの里帰りです。

——昨年末から日本は急速に景気が持ち直し、久しぶりに街に活気が戻りつつあると言われていますが、そうした変化を実感されますか?

 正直、あまりわかりません。日本はこれまで不景気だ、不景気だと言われてきましたが、ヨーロッパから見るとそんなふうには全く感じられない。就職難という言葉もよく耳にしますが、イタリアなどは自動車メーカーが1つしかなく、そこで職を得られなければよその国に行くか、違う職業選択を迫られます。そういう厳しい環境と比較すると、日本は選択肢に溢れた何でも揃った国に見える。そこでいくら不景気だと嘆いても、私にはあまりピンときません。

——仕事の話に移らせていただきます。永島さんのBMW デザイン部門でのキャリアは1988年11月から始まっていますが、これほど長い時間をミュンヘンで過ごされるとは思っていましたか?

 初めからこんなに長くBMWで働くことは想像していませんでした。最初の会社のオペルには4、5年在籍し、その後移ったルノーには3年ほど。そういうスパンでしたから、四半世紀も1つのところに止まるつもりは毛頭なかった。では、長く居続けられた理由は何かといえば、やはり自分の携わった仕事がある程度評価を得たことが大きいですね。評価が上がるにしたがい、組織内で頼りにされるようになり、それが自身のやりがいにつながっていった。
 もちろん、今の環境よりも良い条件のオファーがあれば移籍を考えなくもない。ただ、その際に重視する要素として3つの項目があります。1つはどういう条件で仕事ができるのか。例えば報酬はいくらなのかという問題もそうです。これはやはり無視できません。2つ目は、仕事の内容。どういう仕事を任されるのか。最後に、どこに住まうかです。新しい環境で数年、あるいは10年過ごしたとして、その街自体が全く面白みのないところであったならそれは単なる時間の無駄です。この3つの条件が今よりも良くなるなら移籍を考えますが、どれか1つでも欠けてしまうと難しい。なかにはある1つの条件がひじょうに魅力的で、他は多少見劣りするというような話もあるでしょうが、総合的に見て今をしのぐ点がなければ、BMWから移る理由はありません。

——4代目の5シリーズやZ3ロードスター、5代目の3シリーズが永島さんの代表作で、エクステリア担当デザイナーとしてクレジットされてきたわけですが、今のポジションは自らが直接デザインを手がけるのとは少し異なる立場のようですね。

 現在の肩書きはクリエイティブディレクターです。デザイン部門で1つのプロジェクトが始まると複数のデザイナーがコンペティションに臨みます。スケッチから始まってコンピュータモデリング、クレイモデルといくつもの段階を経て、徐々にアイデアが絞られるのですが、私はスケッチ段階からコンペに参加するすべてのデザイナーの作品を見て、必要に応じてサジェスチョンをし、どの案が選ばれても一定のレベルを確保できるよう彼らをサポートします。その結果、最後に残ったものがより良いものになればいい。そういう意味で、デザインを決定する仕事ではなく、決定時にどれが選ばれても適切なレベルに到達しているようすべてのプロポーザルに目配りをし、その都度助言を行う役割です。


▲永島氏がエクステリアデザインを手がけた先代3シリーズ(2005年/E90型)のデザインスケッチ。

——その役割には、コンペを勝ち抜く面白さとはまた違う魅力や醍醐味がきっとあるのでしょうが、カーデザイナーである以上、心のどこかで自分がデザインしたクルマを世に出したいという気持ちを隠せないのでは?

 コンペに参加してはいけないとは言われていません。しかし参加してしまうと、他のデザイナーに意見を言い難くなる。自分の提案もあるわけで、話の内容に説得力が欠けてしまい、聞くほうもニュートラルに受け取れなくなります。だからあえて自粛しています。ただ、正直に言えば、今の立場でコンペに参加し、私の案が選ばれたこともありました。結局、最後まで面倒見切れないという理由から、途中で外れましたが。


3人のデザインディレクターに仕える

——BMWでは現在までに3人のデザインディレクターに仕えています。クラウス・ルーテ、クリス・バングル、そして現在のエイドリアン・ファン・ホーイドンクと。ファン・ホーイドンク氏は現在進行形であるため功績を評価するのは時期尚早ですが、永島さんから見た彼らの人となりについてお聞かせください。

 クラウス・ルーテは典型的なドイツのオールドジェネレーションです。父親とまではいきませんが、歳もかなり離れていました。この世代のドイツ人はとにかく頑固。デザインを取り巻く環境も現在とはずいぶんと違っていましたよね。例えば最近のデザインは半分ショービジネス的な要素が求められますが、クラウスの時代にはそういう空気はゼロ。まずプレゼンテーションで音楽を使うという発想があり得なかった。デザインクリティックでも、短いセンテンスでダイレクトに話す。もちろん吟味して出てきた言葉ですから、内容は的を得ているのですが、話す素振りにサービス精神は皆無でした。それと比較すると、クリス・バングルはほとんど真逆。デザイン的なことよりもむしろプレゼンテーション能力に秀でていて、まるでショービジネスの世界からやって来たような人でした。

▲2008年、7シリーズ アクティブハイブリッド コンセプトを前に協議を行うデザイン開発チームの面々。中央ブルーのシャツを着ているのが当時のデザインディレクター、クリス・バングル氏。その右隣に立つのがバングル氏の後任としてデザインディレクターに就いたエイドリアン・ファン・ホーイドンク氏。

——それだけキャラクターの違う人物が組織のトップに就くと、混乱が生じたりはしなかったのでしょうか?

 私に関してはありませんでした。クリスのことはオペルにいた頃から知っていて、彼の性格は把握していましたので。
 現在のトップであるエイドリアンは、ふたりとはまた違ったタイプです。一言で言うなら、ひじょうにビジネスマインドに溢れた人物。なかでもお金に関することに長けていて、予算の建て方や、お金を引っ張ってくるためのプロジェクトの売り込み方に関しては、クリスよりもはるかに戦略的に行動しています。会社が成長し、人数も増えた結果、デザインのトップが顔を出さなくてはならないビジネスミーティングは以前よりかなり多くなっていて、スケジュール調整も至難の業だと思います。クラウスの時代とはデザインディレクターに求められる役割がかなり変わってしまったわけです。

——ファン・ホーイドンク氏の起用は、そうした彼のマネージメント能力への期待もあったということですか?

 私が入社した頃のBMWはドイツの地方都市にある一自動車メーカーに過ぎませんでした。趣味人が集まってクルマをつくっているという風土がまだ残っていた。しかし、会社の規模が大きくなった今では、働く社員にもグローバルメーカーの一員としての振る舞いや行動が求められます。簡単に言えば、サラリーマンらしく行動しろと。当然、デザイナーにも協調性を持って組織的に動くことが要求されます。芸術的なことばかりを追求されても困るという雰囲気がある。そういう意味でエイドリアンは、会社全体の動きや方向性を踏まえたうえで、プロジェクトを計画するなど組織全体に目配りができ、そこから外れた突飛なプロジェクトを行うリスクも少ない。そういう意味でも適任なのだと思います。

——デザイナーにも協調性のある行動が求められているということですね。

 全社的にいえばそうです。私はスタッフの仕事を評価する立場にもあるわけですが、人事部門が送ってくる社員の評価基準はデザイン部門だろうと他の部門だろうと変わりません。同じように考え、行動し、全社一体で動くことを奨励する評価項目になっています。それが現在の会社の意思です。
 ただし個人的に言えば、この評価の仕方にはやはり欠陥がある。仮にミケランジェロやゴッホのような天才的なデザイナーが入ってきたとしましょう。当然、彼らに協調性を求めるのは難しい。協調できる人と彼らのような天才と、この世でどちらが希少かといえば、それは間違いなく天才の人たちです。協調性を持った人材はいくらでも代わりがいますが、天才には代わりがいない。そういう人たちを評価できる基準がないというのは、芸術性を生かさずしては成り立たないデザイン部門としては少しまずい。この話を私は何度か人事部問にしています。だからといって主張が認められ体制や規則が変わるわけではありませんが、一律に同じ基準でデザイナーを評価することには問題があるでしょう。

第2回へつづく

永島譲二/1955年東京生まれ。武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科卒業後渡米。ミシガン州・デトロイトのウェイン州立大学にてマスター・オブ・アート修了。1980〜86年アダム・オペル(ドイツ)、1986〜88年ルノー(フランス)に勤務し、生産車などのデザイン開発に関わる。1988年11月ににBMW デザイン部門に移り、現在はエクステリア・クリエティブディレクター。Z3(1996)、5シリーズ(1996)、3シリーズ(2005)を手がけるほか、多くの生産者やコンセプトカーのデザイン開発に携わる。直近では、イタリアの「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラデステ」において披露されたBMWとピニンファリーナによる初のコラボレーションカー、グランルッソクーペのデザインに関わった。