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国民の8割が暮らす公共住宅HDBは
「コミュニティ」を重視

▲ HDBが立ち並ぶ光景。全長10kmの「サザンリッジス(Southern Ridges)」トレイルからの眺望。

SDW(シンガポールデザインウィーク)の取材中、現地デザイナーの厚意で自身の暮らすHDBを案内してもらった。
HDBとは、「Housing & Development Board(住宅開発庁)」の略で、公共の集合住宅の開発や供給を管理する政府機関の名称であり、公共住宅そのものも指す。建国5年目の1960年、シンガポール政府は深刻な住宅不足を解決するためにHDBを設置。強いリーダーシップにより3年後には2万1,000戸、その2年後には5万4,000戸の供給を達成した。現在では、国民の8割以上がHDBに暮らすという。

訪れたのは高層のオフィスビルやホテルが立ち並ぶビジネスエリアに、初の50階建てHDBとして建設された「ピナクル・アット・ダクストン( The Pinnacle@Duxton)」(2009年竣工、1,000戸)。
案内してくれたデザイナーは眺望のよい47階の開放的なフラットをリノベーションし、スタジオ兼住居として使っている。近年HDBの価格は高止まりで、新築なら日本の都心マンションの2倍ぐらいになることも。ピナクルの売却時の予想価格は、150万〜300万シンガポールドル(約1億1800万円〜約2億3700万円)とされている。購入者の多くはHDBの積立制度による融資や各種の補助金を利用している。

▲ チャイナタウンエリア(タンジョン・パガー)から見た「ピナクル・アット・ダクストン」(画面奥)。この巨大なHDBはまちのどこからでも見える。手前は古いHDB。

▲「ピナクル・アット・ダクストン」を見上げる。設計はシンガポール拠点のARC Studio Architecture + UrbanismとRSP Architects Planners & Engineersによる共同チーム。200以上のエントリーを勝ち抜いた。

コミュニティ形成を重視するHDB

印象的なのはなんといっても最上階(50階)の空中庭園「スカイブリッジ」である。7棟をまたいで橋をかけたように展開する広大なスペースには豊かな植栽が施され、ジョギングコースやパブリックアートが設置される。入居者以外でも入場料を払えば入ることができるため、観光やデートのスポットにもなっている。

▲ オープンエアにも関わらず、驚くほど風が穏やか。棟内部の風の通りもよい。現地の建築家によると、「多くのHDBは屋根を除いて断熱せず、玄関から対面の窓にかけて短い奥行きとなっているため風が抜けやすい」とのこと。

住宅開発庁は1990年代からこうした空中のパブリックスペース(スカイガーデン)の導入を推進し、例えば2009年から6年かけてBTO(ビルト・トゥ・オーダー)のHDBとして建設された「スカイビル(SkyVille@Dawson)」「スカイテラス(SkyTerrace@Dawson)」といったプロジェクトでもアイコン的な要素となっている。その主な目的はサスティナブルな環境への配慮と、住民のコミュニティ形成だ。

本稿では特にコミュニティについて着目したい。住宅開発庁のビジョンには「アクティブで結合力のあるコミュニティ形成を促す」と明記され、さらに2011年発表の「HDBでのよりよい生活に向けたロードマップ」では5〜10年先までに「デザイン」「サスティナブル」「コミュニティ」をキーワードにしたまちづくりに取り組むと宣言。HDBの建設プロジェクトでは、周辺環境を含めたコミュニティ形成がもはや必須の要件だ。パブリックスペースを整備するだけでなく、ウェルカムパーティやレクリエーションといった住民が参加できるプログラムを、パートナー組織とともに促進する役目も果たす。

多様な文化がひとつ屋根の下に集う

なぜ、そこまでコミュニティが重視されるのか。ナショナルデザインセンター(NDC)で開催された展覧会「FRONTLINERS IN ACTION」(2017年3月3日〜4月8日)に、そのヒントを見つけた。

▲ ナショナルデザインセンター。

本展は、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展2016でのシンガポール館「SPACE TO IMAGINE, ROOM FOR EVERYONE」のダイジェスト版である。建築展でありながら建物や建築家は登場せず、「人と家(People and their Homes)」「人とまちづくり(People engaging the city)」「人と土地(People working the Land)」というセグメントを通してシンガポールにおける「人と空間の関係」に迫るという内容だ。


▲ ナショナルデザインセンターのアトリウム。

「人と家」では、四角いムラーノガラスの側面にHDBのフラットの写真、内部にはそのHDBのミニチュア模型を収めたランタンをグリッド状に81個吊り下げるインスタレーションを展開した。担当したキュレーター兼撮影者が日本人建築家の宮内智久(シンガポール国立大学 デザイン環境学部建築学科 上級講師)である。宮内は5年ほど前からシンガポールに移住して大学で教えながら、HDBを撮り続けている。

▲ ガラスのランタンはイタリアの照明メーカー、ビアビッズーノ(Viabizzuno)とのコラボによって制作。

▲ 本展キュレーターのひとりである建築家の宮内智久。「古いHDB建築のほうが、多様性があって興味深い」。

「HDBの建物は外から見るととても単調に見える。なかで人はどうやって住んでいるんだろうと友人に何気なく話したのがきっかけです」。最初は知り合いのフラットを撮影し、その後は「笑っていいとも」式に紹介してもらいながら、3年間で118戸のフラットを撮影した。2017年1月にはそれらをまとめた写真集『HDB Homes of Singapore』を出版。時代的、地域的に相当数のバリエーションを網羅し、しかも入居者の視点でHDB内部を眺めることができる貴重な記録資料となっている。

▲ 『HDB Homes of Singapore』のカバー。680ページ、総重量7kgに及ぶ大作。118戸のフラットが掲載されている。118は中華系で縁起のいい数字だそう。

118戸の撮影を通じて宮内が感じたのは、「内部空間としてのHDBは、外部から認識されるものとは全く別次元である」ということだった。「ひとつの建物に中華、マレー、インドなどさまざまなバックグラウンド、世代の人たちが暮らしています。フラットには、それぞれ大切にしている神聖な場所がある。宗教の祭壇だったり、好きなものを並べたコーナーだったり。その圧倒的な多様性に驚かされました」。

例えば、ムスリムのフラットでは、壁のコーランの傍にガンダムの玩具が置かれている。人々の生活は日々変化しながら、独自の宇宙を形成している。その状況を目の当たりにした宮内は、「時空を越えて、豊かな関係性がつながる可能性を感じた」と言うのだ。

▲ HDBの各フラット。

シンガポールは多様な文化が共存してハーモニーを奏でる稀有な国である。HDBでは言語も宗教も異なる人々がひとつ屋根の下で平和に暮らしてきた。しかし、人口の増加や地価の上昇に伴い、より多くの戸数を確保するためにHDBが高層化・単調化するなかで、住人の孤立化が課題として浮かび上がりはじめた。シンガポールは今後20年〜30年以内に「世界トップクラスの住環境」(HDBを中心とした街の若返りを図る「Remaking Our Heartland」プログラムより)の実現を目指しており、ソフト面として「豊かな関係性」を育むコミュニティ形成に注力するのも頷ける。

▲ NDCの展示より。住民の声を聞き、HDBのコミュニティ形成に寄与するのは專門機関やデザイン思考を取り入れる建築事務所などである。

市民参加型で進む「レールコリドー・プロジェクト」

コミュニティ志向はHDBだけではない。より広い範囲の都市開発においても市民参加型のプロジェクトが活発化しているようだ。例えば、URA(都市再開発庁:Urban Redevelopment Authority)が主催する「レールコリドー・プロジェクト(Rail Corridor Project)」もそうだ。1900年代はじめにマレー半島を縦断するマレー鉄道がシンガポール領内まで建設されたが、2010年に領内の路線の廃止を受け、全長24km、100haに及ぶ線路の跡地「レールコリドー」がシンガポールに返還された。

▲ NDCでの「レールコリドー・プロジェクト」について説明するキュレーターのテオイー・チン(Teo Yee Chin)。Red Bean Architectsの建築家でもあり、ヴィネチア・ビエンナーレ国際建築展2016、シンガポール館の会場構成を手がけた。

▲ シンガポール国立大学の建築科の学生が制作した「レールコリドー」の地形モデルは10mにも及ぶ。

返還の際、歴史的ランドスケープの活用に対するアイデアが市民たちから寄せられた。多くは「保存すると同時に、線路沿いに育まれた多様なコミュニティのショーケースとして市民に開放してほしい」というものだった。これを受けてURAは、より広く意見を集めるべく、土地と記憶の使いみちを市民に問うプロジェクトに乗り出したのである。そして、数々のアイデアワークショップやウォーキングなどのイベントを通じて得た声をRFP(提案依頼書)に反映させ、2015年にレールコリドーの国際コンペティションを開催した。

▲ 日建設計+Tierra Designによるマスタープラン「Lines of Life」のイメージ図(画像:日建設計)。

マスタープラン部門で優勝したのは、日建設計とシンガポールのTierra Designのチームによる「Lines of Life」(http://www.nikken.co.jp/ja/work/highlights/highlights_03.html)である。「国土を東西に分断していた鉄道を、コミュニティを結ぶ “ステッチ(縫い目)”として再生」し、敷地の周辺で育まれたコミュニティの「前庭」としてのパブリックスペースを提案。ここでも評価されたのは「コミュニティ」に対する前向きな姿勢だった。

▲ レールコリドー北部のチョア・チュー・カン(Choa Chu Kang)地区の開発コンセプト部門で優勝したMKPL Architectsの展示。線路跡地を直線状の森として再生し、それに沿って住居棟や水辺を配置する案。

シンガポールのこうした住宅供給や都市開発のモデルは、同じように急速に都市化が進む中国やインドでも採用されつつあるという。コミュニティをキーワードにしたまちづくりは、今後アジアのスタンダードになっていくのかもしれない。(文・写真/今村玲子)

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→vol.5に続く(シンガポールの都市開発に欠かせないランドスケープデザイン。その分野で多くの実績を持つサラダドレッシングが取り組んでいる国立公園プロジェクトを紹介します)