東日本大震災から10年
震災下で感じた「工芸が持つチカラ」

2007年。地震がないと思われていた能登半島で地震が起きた。石灯籠で頭を強打した方が1名亡くなったが、人的被害は最小限に止まった。ただし木造家屋が建ち並ぶ地域のため、多くの人家が崩れた。町を歩くと倒壊危険の黄色の印や、住んではいけない赤い印がいくつも目に入った。あの時、多くの工芸に関わる人が輪島塗の友人を助けようと動いた。地震で落下して傷んだものでも送ってもらえば東京で売るから、と声をかけ販売会を企画した。地震のあとでモノが散乱する中での商品の選別、梱包、発送は大変だったようだが、その呼びかけに応えるべく、多くの品が東京に送られた。

多くの販売会の場所代は支援してもらい、「何かしたい」という人たちが販売を応援した。「現金化できたことはもちろんだが、応援してもらっているという気持ちが嬉しかった」とあとで聞いた。

ところが、輪島は分業の土地。「塗師(ぬし)」と呼ばれる、漆の仕上がりをイメージし、デザインはもちろん、木地の手配、塗りの具合、売り先までをプロデュースする人々は販売するものがあるから良い。その一方で、分業を担う人々、木地師、中塗り、研ぎ、沈金・蒔絵など加飾の職人は技術が売り物だ。その時、彼らには売る「もの」がなかった。かろうじて蒔絵師には、金継ぎを依頼することで、その”腕”を現金化し、応援することができたが、この地震をきっかけに、「廃業する職人も多くいた」と聞く。

それから4年後の2011年3月11日。東日本大震災の甚大な被害を前に、多くの人は工芸は無力だと感じただろう。あまりにも被害が大きく、震源地から遠く離れた東京も余震に怯え、閉店後、品物を棚から下しておかねばならないほどだった。寒さの中、家を追われる人、大切な人を探す人。そうでなくても、極限の精神状態の中、「こんな時こそ、美しいモノを!」と呟いても、空虚にしか感じなかった。あの頃は「生活になくても暮らしていけるモノ」を販売したり、買うことに後ろめたさすら感じた。

人は順序を決める。まず、食べること、家族の安全、そして暮らす場所。だが、生きるのが精一杯な人は、美しいモノを求めてはいけないのだろうか。

こんなに情報が溢れている世の中でも、人が「どんな気持ちでいるか」は、分からない。本人だって分からないことばかりだ。昨日までは「美しさ」なんて考えられなかった人が、今日は美しさに心癒されるかもしれない。「こういうときは、こうあるべき」という法則なんてない、と思うのだ。

工芸が人に必要なものなのか。極限の時は1番にはなり得ないかもしれない。だが工芸はどんな人にも平等にある、と信じている。

東日本大震災の際、何かしなければ、という焦りから、私は区のボランティアに参加して宮城に何度か行った。ただし、応募する勇気が出るまで時間がかかり、動いたのは7月だった。夜行バスがついた時、車窓には波にさらわれたであろう風景が目に飛び込んだが、作業はすでに一通りが終わっており、割り当てられた仕事は、わずかな瓦礫拾いだった。何の役にも立っていない。自分の気持ちを落ち着かせるためだけだったのではないか、という考えが頭を巡った。「本当に来て欲しかったのはもっと早い時期」と思う人もいただろう。だが、「誰かが来てくれてた」ことだけでも役にたったのも事実だろう。やはり、回答はない。

情報によって人を傷つけることもあるが、知らないことで人を傷つけることもある。ボランティアの帰りのバスの中で、リーダーが語った一言が今でも忘れられない。

「そろそろ、この被災地支援のバスは役割を終えて終了します。ここでみなさんにマザー・テレサの言葉を送ります。 『愛の反対は憎しみではなく無関心です』 皆さん、常にこの地震のことを覚えていてください」

10年たったが、まだまだ続いていることを覚えていなくてはいけない、と思うのだった。End