出来すぎたモノに面白味を感じないのは何故なのか!?
丹波布から思う”雑味”と”ゆらぎ”の話

今より、世の中がもう少し落ち着いていたときのこと。丹波篠山で長いこと、面白い動きをしているKiBBuTZの吉成佳泰さんからのお声がけで、丹波布に関わる人との勉強会に向かった。実は、ものづくりには関わっているものの、私自身「”糸へん”に苦手意識を持っているから不向きではないか」と伝えたのだが、他産地、他素材の事例を話して貰えばいい、と言われた。そこで、この苦手意識を取っ払うきっかけにもなるかもしれない、と丹波篠山に向かった。(その後、丹波布に関してはこちらに書かせて頂いた)

丹波布の作り手は、基本、綿の栽培、糸紡ぎ、染め、織を一貫して行う。みな、糸と織に対する敬意が、並では無い。だから自ずと、糸は繊細に、均質に仕上がっていく。だが、人間の感覚は贅沢なもので、あまりにも整っていると「機械製品みたい」と、残酷な感じ方をする。均質なものをすごいと思うが、同時に違いがない=量産のよう、と思いがちだ。

勉強会ではそんな話になり、「皆さんの織はあまりにも整いすぎる。雑味があった方が、素人目には親しみやすい」と、糸へんが苦手な人間としての率直な意見を述べた。

▲古道具が一つ、二つ、空間にあると、場の雰囲気が変わる。これも、雑味、ゆらぎ、使いこみ効果だろう。

たとえば、伝統工芸の公募展などで、その傾向は顕著だ。あまりにも完璧を求め、抜けのない作品群が並び、興醒めしてしまうことを思い出した。

おそらく、それぞれの技術を知り尽くしている人が見たら、卓越した技の中の優劣があるのだと思う。”全てが完璧”ということは、逆に、見所が理解しづらいとも言えるのではないだろうか。

“雑味”が面白い、と気づいたのは切子だった。

会社員時代、江戸切子をいっとき扱っていたが、(比べるまでも無いが)サントリー美術館のあの美しい切子のコレクションとどうして違うのだろう、と考えた。数年後、ある職人さんから「昔は、金剛砂とやすりで手摺りだった」と聞き、道具がそもそも違い、スピードも違うことに気がついた。硝子自体の精度も悪い。不純物が取りきれない原料は、安定した配合に調整した組成では作り得ない偶然の面白味がある。今は、ちょっと煤や気泡が入ればハネ品扱いされるが、生地の精度がよくなり、純度を求めた結果、気泡を”アバタ”に見せ、面白みをなくす。

自然界の雑味だけで物作りをするには、今の世の中は忙しすぎる。モノのない時代と同じことをしようとすると、逆に時間とお金がかかるモノだ。

そういえば、作り手の方が「このまま、うまくなりたく無い」とか、「最近、あの人、上手くなりすぎて面白く無い」と言う言葉を聞くことがある。子供のように無邪気に作ってたときの素朴さが、経験や知識によってなくなることを恐れての言葉だ。

さて、精度が良いものは本当に単調なのだろうか。

ふと、自分の名刺入れを思い出した。数年前に手に入れた丹波布の名刺入れだ。一度は作り手が途絶え、柳宗悦が道具市などで切れ端でも探し求め、その後復活した布だ。手に入れたときは、「整いすぎている」と感じた生地が、何年か使い続け、程よく“揺らぎ”が感じられるようになった。

▲丹波布で作られた名刺入れと襟巻き。大阪日本民芸館で購入した。

なるほど、「精度が良い=面白味がない」と即断したのは尚早かもしれない。長い時間をかけて作ったものは、長く使えば使うほど味が出てくる。

そういえば、その道に長けた人は後のことまで、想像できる。使い込んだら、どんなふうになるか。経験があると、ある程度の予測がつくモノだ。

実は数年前、布に対する苦手意識が少し薄らいだ。ラオスで布作りをしていた谷さんの布を使い始めてからだった。谷さんの布は使えば使うほど、味が出る。「糸へん好き」の気持ちが少しだけ解ってきたのだった。

▲谷さんがラオスで作られたシャツ。丹波布の勉強会の時に持参したところ、織り手は我先に、と触っていた。

まだ、しばらく“お家時間”は続くだろう。道具や器は使いこめば面白味は増す。使い込む時間は山ほどある。使い込んで、モノの今後、まで見通せるに目を持ちたい。

買ったまま安心して、一度も使っていない器を眺め、反省しながら、そんなことを考えたのだった。


前回のおまけ

金継ぎ繋がりの話。春先ーSDGs絡みで、金継ぎに関するミニドラマに協力。依頼事項は「飯碗を探すこと」。ストーリー上、破損したものが必要だったので、知己のある皐月窯さんに協力を仰ぎ、ハネ品を入手しました。無事に収録され、NHKワールドで放送されました。End